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「蕭宝寅」の版間の差分

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遡って同年([[中興 (南朝斉)|中興]]元年)3月、雍州刺史[[蕭衍]]により[[荊州区|江陵]]で擁立された弟の蕭宝融([[和帝 (南朝斉)|和帝]])から、使持節・都督南徐兗二州諸軍事・[[衛将軍]]・[[南徐州]]刺史に任じられていた。12月、蕭宝巻が殺害され蕭衍により建康城が陥落すると、鄱陽王に改封された。中興2年([[502年]])3月、北魏に亡命した。[[景明]]3年閏4月、都[[洛陽市|洛陽]]で[[宣武帝]]に謁見し、洛陽西方の帰正里に邸宅と衣冠車馬を与えられた。

2020年9月11日 (金) 21:09時点における版

蕭宝寅
皇帝
王朝
在位期間 528年 - 529年
都城 長安
姓・諱 蕭宝寅
智亮
生年 永明3年(485年)以後[1]
没年 永安3年(530年
明帝
敬皇后
后妃 元皇后
年号 隆緒 : 528年 - 529年
蕭宝寅
各種表記
繁体字 蕭寶寅
簡体字 萧宝寅
拼音 Xiāo Bǎoyín
ラテン字 Xiao Baoyin
和名表記: しょう ほういん
発音転記: シャオ・パオイン
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蕭 宝寅(しょう ほういん)は、南朝皇族北魏に亡命して斉王に封じられ、軍人として活躍した。その後、関中で反乱を起こして斉の皇帝を称したが、北魏軍の追討を受けて敗北した。

生涯

明帝の八男。建武元年(494年)に父が即位すると、建安王に封じられた。建武2年(495年)、北中郎将となり、琅邪城中国語版に駐屯した。建武3年(496年)1月、持節・都督江州諸軍事・南中郎将・江州刺史として出向した。永泰元年(498年)に同母兄の東昏侯蕭宝巻が即位すると、使持節・都督郢司二州諸軍事・征虜将軍・郢州刺史に任じられ、まもなく前将軍の号を受けた。永元2年(500年)、建康に召還されて撫軍となり、領石頭戍事とされたが、赴任しなかった。永元3年(501年)1月、車騎将軍開府儀同三司となり、石頭に駐屯した。

7月、雍州刺史の張欣泰や前南譙郡太守の王霊秀らが起兵して、蕭宝寅を奉じて台城に向かった。杜姥宅まで進軍したが、城門は閉ざされており、城壁の上から射かけられると、反乱兵は蕭宝寅を捨てて逃走した。蕭宝寅は3日間の逃亡の後に捕らえられて、蕭宝巻に謁見すると、泣いて謝罪し罪を許された。9月、使持節・都督荊益寧雍梁南北秦七州諸軍事・荊州刺史に任じられた。

遡って同年(中興元年)3月、雍州刺史蕭衍により江陵で擁立された弟の蕭宝融(和帝)から、使持節・都督南徐兗二州諸軍事・衛将軍南徐州刺史に任じられていた。12月、蕭宝巻が殺害され蕭衍により建康城が陥落すると、鄱陽王に改封された。中興2年(502年)3月、北魏に亡命した。景明3年閏4月、都洛陽宣武帝に謁見し、洛陽西方の帰正里に邸宅と衣冠車馬を与えられた。

この年の冬、南朝梁の江州刺史陳伯之やその長史の褚冑らが寿春で北魏に帰順した。宣武帝は蕭宝寅や陳伯之の懇請を容れて、南征を決断した。景明4年(503年)、使持節・都督東揚南徐兗三州諸軍事・鎮東将軍・東揚州刺史に任じられ、丹陽郡開国公・斉王に封じられた。1万の兵を与えられて、南征の途につき、東城に向かった。正始元年(504年)、蕭宝寅の軍は汝陰に到達したが、東城が既に陥落していたため、寿春の栖賢寺に留まった。敵将の姜慶真が北進し、寿春の外郭を落として拠っているとこれを攻撃したが、味方が少勢だったために勝てず、金城に撤退した。再び相国東門に出て奮戦し、姜慶真を撃破した。この寿春の戦いにおいて、蕭宝寅の武功は北魏の諸軍中で第一と評された。7月、洛陽に帰ると、梁郡開国公に改封された。

正始3年(506年)、中山王元英が南征すると、蕭宝寅は上表して従軍を求めた。使持節・鎮東将軍となり、羽林虎賁500人を与えられ、別将として元英の後詰めとなった。元英とともに梁軍を連破し、勝利に乗じて鍾離を攻撃したが、正始4年(507年)、鍾離の戦いに敗れ、蕭宝寅は元英とともに撤退した。東橋の守りを蕭宝寅が固めなかったことが敗因と報告され、極刑に処すよう宣告されたが、宣武帝からは一命を赦して、官爵を剥奪されるに留められた。まもなく蕭宝寅は南陽長公主中国語版を妻に迎えたが、互いに礼を尽くし、夫婦の関係が良好なことで知られた。

永平4年(511年)、梁の馬仙琕張稷中国語版らが朐山戍を攻撃すると、徐州刺史の盧昶は洛陽に救援を求めた。使持節・仮安南将軍となった蕭宝寅は別将として朐山の救援に向かった。朐山の戦いは北魏側の敗北に終わり、盧昶は単騎で逃亡したが、蕭宝寅は部隊をまとめて帰投した。

延昌元年(512年)、安東将軍・瀛州刺史に任じられ、再び斉王に封じられた。延昌4年(515年)、撫軍将軍・冀州刺史に転じた。大乗の乱が起こると、蕭宝寅は軍を派遣して反乱軍を攻撃したが、たびたび敗れた。洛陽から征北大将軍の元遥率いる援軍が到着すると、ようやく反乱を鎮圧することができた。孝明帝が即位し、霊太后が臨朝称制すると、蕭宝寅は洛陽に帰還した。

梁将の康絢が浮山堰を築いて淮水を堰き止め、寿陽を水攻めにしようとした。蕭宝寅は使持節・都督東討諸軍事・鎮東将軍として康絢を討つべく南征の途についた。まもなく梁郡開国公に改封され、済州濮陽に寄食した。熙平元年(516年)に梁軍が堰を完成させると淮水が氾濫を始め、寿陽に危機が迫った。蕭宝寅は淮水の上流を堰き止め、さらに新渠を掘ることで、寿陽に注ぐ水を減らした。蕭宝寅は軽車将軍の劉智文と虎威将軍の劉延宗を派遣して、夜間に淮水を渡らせ、梁側の3塁を焼き討ちした。劉智文らは梁の直閤将軍の王升明を斬って帰還した。敵将の垣孟孫・張僧副らが水軍3000を率いて淮水を渡り、北岸にいた統軍の呂叵を攻撃すると、蕭宝寅は府司馬の元達や統軍の魏続年らを派遣して救援し、垣孟孫らを敗走させた。

この頃、梁の武帝蕭衍は蕭宝寅に宛てて親書を送り、帰順を呼びかけた。蕭宝寅は蕭衍に斉を滅ぼされ、蕭宝融ら兄弟を殺された恨みを忘れておらず、怒りの言を吐きながら洛陽の朝廷に報告した。蕭宝寅は孝明帝から左光禄大夫・殿中尚書に任じられた。軍主の周恭叔に数百の兵を与えて、夜間に淮水を南に渡らせ、梁の徐州刺史の張豹子らの11営を焼き討ちさせた。洛陽に帰還した蕭宝寅は、使持節・散騎常侍・都督荊東洛二州諸軍事・衛将軍・荊州刺史に任じられたが、荊州に赴任しないうちに、再び殿中尚書となった。神亀年間、都督徐南兗二州諸軍事・車騎将軍・徐州刺史として出向した。清東に学館を建て、現地の子弟に儒学教育を推奨し、政治に精励した。

正光2年(521年)、洛陽に召還されて、車騎大将軍・尚書左僕射となった。正光4年(523年)、人事の考課方法について上表した。また前年に梁から亡命してきた蕭正徳について、信用しないよう進言した。

正光5年(524年)、梁将の裴邃・虞鴻らが寿春に進攻してくると、蕭宝寅は使持節・散騎常侍・車騎大将軍・都督徐州東道諸軍事となり、北魏の諸将を率いて救援に向かった。到着する前に、揚州刺史の長孫稚が裴邃の軍を破り、虞鴻を斬って、梁軍を撃退していたため、蕭宝寅が戦場に出る場面はなかった。

ときに秦州莫折念生が反乱を起こして秦天子を自称した。その弟の莫折天生が隴東に進出し、元志・裴芬之(裴叔業の子)らを破って、岐州を占領した。蕭宝寅は開府西道行台となり、大都督として莫折天生を討つべく西征した。大都督の崔延伯中国語版とともに進軍し、孝昌元年(525年)1月に雍州の黒水で莫折天生を攻撃して大勝した。小隴まで追撃したが、莫折天生には隴西に逃げ込まれた。孝昌2年(526年)4月、蕭宝寅は侍中・驃騎大将軍・儀同三司大将軍尚書令に任じられた。9月、莫折念生が降伏を申し入れてきたため、蕭宝寅は行台左丞の崔士和を派遣して秦州を占拠させた。まもなく莫折念生は再び叛き、崔士和は殺害された。

孝昌3年(527年)1月、司空公に任じられた。蕭宝寅は涇州で反乱軍に大敗を喫し、多くの兵を失って、長安に帰還した。御史は蕭宝寅を死罪に処すよう宣告したが、孝明帝は一命を赦して官爵を剥奪し、庶人とした。4月、使持節・都督雍涇岐南豳四州諸軍事・征西将軍・雍州刺史に任じられた。仮の車騎大将軍・開府西討大都督となり、潼関以西の諸軍を統制した。9月、莫折念生が部下の杜粲に殺害され、杜粲は秦州を挙げて蕭宝寅に降伏した。10月、散騎常侍・車騎将軍・尚書令に任じられ、再び斉王に封じられた。

ときに連年の出征で莫大な軍費を消費していた蕭宝寅は涇州の敗戦以来、朝廷からの猜疑を受けるようになり、御史中尉の酈道元が関中大使として派遣された。10月、部下に不安を煽られた蕭宝寅は、酈道元が陰盤駅まで来たところを、密かに派遣した郭子恢らに攻め殺させ、その遺体を回収して反乱軍に殺されたものとして公表した。さらに都督の南平王元仲冏中国語版を殺害した。この月のうちに帝を称して国号を斉とし、隆緒と元号を建てた。郭子恢を東方に派遣して潼関を攻めさせ、行台の張始栄に華州刺史の崔襲を包囲させた。孝明帝は尚書僕射・行台の長孫稚を派遣して蕭宝寅を討たせることとした。また北地郡の毛鴻賓とその兄の毛遐が郷党を糾合して、蕭宝寅を討つべく起兵した。蕭宝寅は大将軍の盧祖遷らを派遣して毛遐を攻撃させたが、毛遐に殺害された。また将軍の侯終徳を派遣して毛遐を攻めさせた。隆緒2年(528年)1月、郭子恢が潼関で長孫稚に敗れた。また張始栄も長孫稚の子の長孫儁中国語版に華州で撃破された。士気を挫かれた侯終徳は北魏に寝返り、取って返して蕭宝寅を討とうと図った。侯終徳の軍が白門に至って、ようやく寝返りに気づいた蕭宝寅は侯終徳と交戦したが、敗北した。蕭宝寅は元皇后と三男の蕭凱を連れて長安を脱出し、渭橋を渡って、寧夷巴の張宕昌・劉興周を頼った。まもなく万俟醜奴に帰順し、その下で太傅を務めた。

永安3年(530年)4月、都督の爾朱天光賀抜岳らを派遣して、安定で万俟醜奴を破ると、蕭宝寅も万俟醜奴と共に追われて捕らえられた。その身柄は洛陽に送られ、閶闔門外の街中に3日の間晒された。吏部尚書の李神儁や黄門侍郎の高恭之が蕭宝寅の旧功を孝荘帝に訴えて、一命を赦すよう願い出たが、王道習の言を聞き入れた孝荘帝の命により処刑された。

子女

  • 長男:蕭烈(孝明帝の妹の建徳公主中国語版を妻に迎え、駙馬都尉に任じられた。父が北魏に背くと処刑された)
  • 次男:蕭権(弟の蕭凱と弓遊びをして、弟の矢が当たって死んだ)
  • 三男:蕭凱(司徒左長史に上った。東魏天平年間に妻の長孫氏(長孫稚の娘)の使嗾により母の南陽公主を殺したため、車裂刑に処された)

脚注

  1. ^ 同母兄の蕭宝巻は、483年に生まれた。

伝記資料

先代
和帝
皇帝
528年 - 529年
次代
滅亡