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父の朱才が亡くなったとき、祖父から続く故鄣侯の爵位を継いで部将となったが、朱才の兵は義従兄の[[朱績]](朱然の子)に引き継がれた<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志 朱然伝</ref>。のちに鎮西将軍にまで昇進した<ref>『三国志』呉志 朱治伝</ref>。


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[[天紀]]4年([[280年]])、[[呉の滅亡 (三国)|西晋が呉を亡ぼした]]ときには、参戦した人物の中に朱琬の名前はないため、それまでに引退したか死亡したと思われる。
[[天紀]]4年([[280年]])、[[呉の滅亡 (三国)|西晋が呉を亡ぼした]]ときには、参戦した人物の中に朱琬の名前はないため、それまでに引退したか死亡したと思われる。

2020年9月14日 (月) 22:55時点における版

朱 琬(しゅ えん、? - ?)は、三国時代武将揚州丹陽郡故鄣県(現在の浙江省安吉県)の人。祖父は朱治。父は朱才。義伯父は朱然(施然)。

生涯

父の朱才が亡くなったとき、祖父から続く故鄣侯の爵位を継いで部将となったが、朱才の兵は義従兄の朱績(朱然の子)に引き継がれた[1]。のちに鎮西将軍にまで昇進した[2]

鳳凰元年(272年)、西陵督の歩闡西晋に城ごと投降するという事件が起きた(西陵の戦い)。西晋の都督荊州諸軍事羊祜は巴東将軍徐胤建平に向かわせたため、楽郷陸抗は、水軍督留慮・鎮西将軍朱琬を派遣しこれを迎え撃たせた。戦いは数カ月に及んだが、陸抗は歩闡や援軍の荊州刺史楊肇らを打ち破ることに成功した[3]

天紀4年(280年)、西晋が呉を亡ぼしたときには、参戦した人物の中に朱琬の名前はないため、それまでに引退したか死亡したと思われる。

参考文献

脚注

  1. ^ 三国志』呉志 朱然伝
  2. ^ 『三国志』呉志 朱治伝
  3. ^ 『三国志』呉志 陸遜