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「ハンス・フォン・ゼークト」の版間の差分

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一方、[[中華民国]]の[[中国国民党]]政権は、相次ぐ内戦の中で、ドイツの軍事技術と兵器を求めていた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=15}}。ゼークトは1920年代から中華民国側と交渉において接触しており、中国側もゼークトに信頼感を抱いていた。1931年9月18日の[[満州事変]]後、[[国際連盟]]が事件の調査団を派遣しようとしていた際には、ドイツ代表としてゼークトが候補の一人となっていたが、[[介石]]もドイツ代表としてゼークトを希望するほどだった{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=22}}。
一方、[[中華民国]]の[[中国国民党]]政権は、相次ぐ内戦の中で、ドイツの軍事技術と兵器を求めていた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=15}}。ゼークトは1920年代から中華民国側と交渉において接触しており、中国側もゼークトに信頼感を抱いていた。1931年9月18日の[[満州事変]]後、[[国際連盟]]が事件の調査団を派遣しようとしていた際には、ドイツ代表としてゼークトが候補の一人となっていたが、[[介石]]もドイツ代表としてゼークトを希望するほどだった{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=22}}。


またドイツ経済界にとっても中国市場は魅力的であり、中国各地にドイツ系の商社が置かれ、武器の輸出に関与していた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=15-16}}。[[広州]]に本拠を置くペルツ中国商会もそんな企業の一つであり中国にドイツ製武器工場を建設しようとしていた。1931年には同社の[[アンドレアス・マイアー=マーダー]]退役大尉がゼークトに接触した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=16}}。この交渉は妥結しなかったものの、マイアー=マーダーは国民党[[広西派]]との間で広州に武器工場を建設するという協定を締結し、1932年7月にはゼークトと再び交渉を行った{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=17}}。ゼークトはマイアー=マーダーに[[ハンス・クライン]]を紹介し、この計画を支援することを決定した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=17-18}}。クラインはやがてペルツ中国商会を交渉の場から引きずり落とし、プロジェクトを独占しようとした{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=19-20}}が、ゼークトはクラインの動きを完全に支持していた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=21}}。
またドイツ経済界にとっても中国市場は魅力的であり、中国各地にドイツ系の商社が置かれ、武器の輸出に関与していた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=15-16}}。[[広州]]に本拠を置くペルツ中国商会もそんな企業の一つであり中国にドイツ製武器工場を建設しようとしていた。1931年には同社の[[アンドレアス・マイアー=マーダー]]退役大尉がゼークトに接触した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=16}}。この交渉は妥結しなかったものの、マイアー=マーダーは国民党[[広西派]]との間で広州に武器工場を建設するという協定を締結し、1932年7月にはゼークトと再び交渉を行った{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=17}}。ゼークトはマイアー=マーダーに[[ハンス・クライン]]を紹介し、この計画を支援することを決定した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=17-18}}。クラインはやがてペルツ中国商会を交渉の場から引きずり落とし、プロジェクトを独占しようとした{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=19-20}}が、ゼークトはクラインの動きを完全に支持していた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=21}}。


一方で介石はドイツ大物軍人を中国に招待する希望を持っていた。介石と国防部次長[[陳儀]]は[[在華ドイツ軍事顧問団]]団長[[ゲオルク・ヴェッツェル]]と不仲であり、彼らは新たな団長としてゼークトをテストする構想を持っていた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=21}}。1932年5月には軍を通じてゼークトを中国旅行に招待したが{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=23}}、政治的な動きを行っていたゼークトが中国訪問を決定したのは1933年1月30日の[[ヒトラー内閣]]成立後だった{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=24}}。1933年4月14日にはマルセイユを出港し、5月6日に[[香港]]に到着した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=6}}。ゼークトは日記に「私は静謐を得たいと考え、中国に来た。なんという皮肉であろう。それはすべて金のためだけなのだ。私はここで何をなすべきなのか。」{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=27}}と記している。ゼークト夫人のドロテーは贅沢好きで知られており<ref>ゼークトは中国滞在中にもしばしば妻の浪費を嘆く記述を日記に記している{{harv|田嶋信雄|2008|pp=39}}。</ref>、ゼークトが介石の招待に応じたのは金銭が目的であった{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=28}}。一方でドイツ外務省はドイツ軍人が国外で活動することを望んでおらず、また日本との関係を刺激することを怖れていた。外務省は帰途に日本を訪問するよう要請したが、ゼークトは「中国当局を不快にしかねない」と拒絶した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=28}}。介石はゼークトに3万[[ライヒスマルク]]を贈っていたが、5月28日の会談後には1万ライヒスマルクをさらに贈呈した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=29}}。会談後には介石夫人[[宋美齢]]を「夫よりはるかに勝る」と評価している{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=29}}。その後ゼークトは[[北京]]に滞在していたが、ヴェッツェルの批判を行うようになり、介石政権に接近しようとしていた。ゼークトの中国旅行にも協力したヴェッツェルはこの背信に怒り、ドイツ大使館に対してゼークトを「この男」呼ばわりする書簡を送っている{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=38-39}}。一方でクラインおよび新広西派との関係は次第に重荷に感ずるようになっていた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=38}}。7月14日、ゼークトは帰国の途に就き、8月8日にマルセイユに到着した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=38-39}}。
一方で介石はドイツ大物軍人を中国に招待する希望を持っていた。介石と国防部次長[[陳儀]]は[[在華ドイツ軍事顧問団]]団長[[ゲオルク・ヴェッツェル]]と不仲であり、彼らは新たな団長としてゼークトをテストする構想を持っていた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=21}}。1932年5月には軍を通じてゼークトを中国旅行に招待したが{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=23}}、政治的な動きを行っていたゼークトが中国訪問を決定したのは1933年1月30日の[[ヒトラー内閣]]成立後だった{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=24}}。1933年4月14日にはマルセイユを出港し、5月6日に[[香港]]に到着した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=6}}。ゼークトは日記に「私は静謐を得たいと考え、中国に来た。なんという皮肉であろう。それはすべて金のためだけなのだ。私はここで何をなすべきなのか。」{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=27}}と記している。ゼークト夫人のドロテーは贅沢好きで知られており<ref>ゼークトは中国滞在中にもしばしば妻の浪費を嘆く記述を日記に記している{{harv|田嶋信雄|2008|pp=39}}。</ref>、ゼークトが介石の招待に応じたのは金銭が目的であった{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=28}}。一方でドイツ外務省はドイツ軍人が国外で活動することを望んでおらず、また日本との関係を刺激することを怖れていた。外務省は帰途に日本を訪問するよう要請したが、ゼークトは「中国当局を不快にしかねない」と拒絶した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=28}}。介石はゼークトに3万[[ライヒスマルク]]を贈っていたが、5月28日の会談後には1万ライヒスマルクをさらに贈呈した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=29}}。会談後には介石夫人[[宋美齢]]を「夫よりはるかに勝る」と評価している{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=29}}。その後ゼークトは[[北京]]に滞在していたが、ヴェッツェルの批判を行うようになり、介石政権に接近しようとしていた。ゼークトの中国旅行にも協力したヴェッツェルはこの背信に怒り、ドイツ大使館に対してゼークトを「この男」呼ばわりする書簡を送っている{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=38-39}}。一方でクラインおよび新広西派との関係は次第に重荷に感ずるようになっていた{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=38}}。7月14日、ゼークトは帰国の途に就き、8月8日にマルセイユに到着した{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=38-39}}。


=== 中華民国軍事顧問 ===
=== 中華民国軍事顧問 ===
[[画像:Hans_von_Seeckt_Grabplatte.jpg|thumb|[[ベルリン軍人墓地]]にあるゼークトの墓]]
[[画像:Hans_von_Seeckt_Grabplatte.jpg|thumb|[[ベルリン軍人墓地]]にあるゼークトの墓]]
9月29日、介石はゼークトと再会する希望を打電し、9月30日には正式にヴェッツェルの後任として顧問団長就任を要請する書簡を送った{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=40}}。ゼークトからこの報告を受けた[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]外務大臣はこの要請を断るように求めた{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=51}}。ゼークトはこれに応じ、代わりに介石の個人顧問として[[アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン]]、軍事問題の再編担当顧問として[[ヴィルヘルム・ファウペル]]を推薦することにした{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=51}}。しかし介石は断念せず、ヴェッツェルの倍額の報酬を提示し、正規の外交ルートをも使ってゼークトの就任を要請した。ここにいたって外務省も2、3ヶ月の視察旅行としてのゼークト訪中を許可した{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=51-53}}。ゼークトは妻ドロテーをともなって1934年3月9日に出発し{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=67}}、4月8日に上海に到着した{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=67}}。
9月29日、介石はゼークトと再会する希望を打電し、9月30日には正式にヴェッツェルの後任として顧問団長就任を要請する書簡を送った{{sfn|田嶋信雄|2008|pp=40}}。ゼークトからこの報告を受けた[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]外務大臣はこの要請を断るように求めた{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=51}}。ゼークトはこれに応じ、代わりに介石の個人顧問として[[アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン]]、軍事問題の再編担当顧問として[[ヴィルヘルム・ファウペル]]を推薦することにした{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=51}}。しかし介石は断念せず、ヴェッツェルの倍額の報酬を提示し、正規の外交ルートをも使ってゼークトの就任を要請した。ここにいたって外務省も2、3ヶ月の視察旅行としてのゼークト訪中を許可した{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=51-53}}。ゼークトは妻ドロテーをともなって1934年3月9日に出発し{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=67}}、4月8日に上海に到着した{{sfn|田嶋信雄|2010|pp=67}}。


5月2日、ゼークトは介石と会談し、国民政府軍の再編を委嘱された。ゼークトは主要な軍幹部と会談する権限を得、さらに介石が不在の際の軍事指揮権をも委任された{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=3}}。ゼークトは早速六個師団の編制を提案し{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=3}}、介石の厚い信任を得た。しかし体調を崩して多病となり、一時は死を危ぶまれるほどであった{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=3}}。一方でゼークトはクラインと広西派のプロジェクト支援にも関与を求められ続けたが、介石の不興を買うこのプロジェクトを忌避するようになっていった{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=15}}。またドイツ本国の国防軍・外務省が広西派との関係強化をはかっていたが、ゼークトはこれらの事実を介石に伝えることを躊躇していた。介石はこれらの事実を察知し、言及しないゼークトに対する不信をかえって強めた。板挟みとなったゼークトは心身をすり減らし、1935年3月1日には顧問辞職の辞表を提出した{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=28}}。介石はこの辞表を受理しなかったものの、3ヶ月の帰国休暇を与えた{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=28}}。そのまま帰国したゼークトは、二度と中国には戻らず、顧問団の役割はファルケンハウゼンに受け継がれた。ゼークトの在任中に[[上海市|上海]]周辺に構築された防御陣地は「[[ゼークトライン]]」と称される。陣地は1937年の[[第二次上海事変]]の際に、日本軍に大打撃を与えたものの、最終的には日本軍に攻略されている。
5月2日、ゼークトは介石と会談し、国民政府軍の再編を委嘱された。ゼークトは主要な軍幹部と会談する権限を得、さらに介石が不在の際の軍事指揮権をも委任された{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=3}}。ゼークトは早速六個師団の編制を提案し{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=3}}、介石の厚い信任を得た。しかし体調を崩して多病となり、一時は死を危ぶまれるほどであった{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=3}}。一方でゼークトはクラインと広西派のプロジェクト支援にも関与を求められ続けたが、介石の不興を買うこのプロジェクトを忌避するようになっていった{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=15}}。またドイツ本国の国防軍・外務省が広西派との関係強化をはかっていたが、ゼークトはこれらの事実を介石に伝えることを躊躇していた。介石はこれらの事実を察知し、言及しないゼークトに対する不信をかえって強めた。板挟みとなったゼークトは心身をすり減らし、1935年3月1日には顧問辞職の辞表を提出した{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=28}}。介石はこの辞表を受理しなかったものの、3ヶ月の帰国休暇を与えた{{sfn|田嶋信雄|2011|pp=28}}。そのまま帰国したゼークトは、二度と中国には戻らず、顧問団の役割はファルケンハウゼンに受け継がれた。ゼークトの在任中に[[上海市|上海]]周辺に構築された防御陣地は「[[ゼークトライン]]」と称される。陣地は1937年の[[第二次上海事変]]の際に、日本軍に大打撃を与えたものの、最終的には日本軍に攻略されている。


[[1936年]]4月、第67歩兵連隊([[:de:Kaiser Alexander Garde-Grenadier-Regiment Nr. 1]])の[[名誉連隊長]]に叙された。12月17日に[[ベルリン]]で死去した。
[[1936年]]4月、第67歩兵連隊([[:de:Kaiser Alexander Garde-Grenadier-Regiment Nr. 1]])の[[名誉連隊長]]に叙された。12月17日に[[ベルリン]]で死去した。

2020年9月15日 (火) 13:20時点における版

ハンス・フォン・ゼークト
Hans von Seeckt
生誕 1866年4月22日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州
死没 (1936-12-27) 1936年12月27日(70歳没)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
プロイセン州 ベルリン
所属組織 プロイセン王国陸軍
ドイツ帝国陸軍
ヴァイマル共和国軍
軍歴 1885年 - 1926年
最終階級 上級大将
墓所 ベルリン軍人墓地
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ヨハネス・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゼークト(Johannes Friedrich Leopold von Seeckt、1866年4月22日 - 1936年12月27日)は、ドイツ軍人。最終階級は上級大将。通称はハンス・フォン・ゼークト(Hans von Seeckt)。

参謀総長や陸軍総司令官を務め、1920年代前半のヴァイマル共和国軍最大の実力者として「国家の中の国家」である軍の権威を確立した[1]

略歴

ゼークトとゲスラー(1930年)

1866年シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州プロイセン軍陸軍将校の息子として生まれる[2]。ゼークトは1885年に陸軍に入隊、ベルリンのアレクサンダー近衛擲弾兵第一連隊に配属される。陸軍大学校卒業後、1899年参謀本部作戦課に勤務する[2]第一次世界大戦勃発時には第3軍団参謀長であったが、戦時中には主に東部戦線に従軍した。1915年3月以降はアウグスト・フォン・マッケンゼン将軍の参謀長として随行した[2]ゴルリッツ=タルノフ攻勢英語版 を勝利に導いたほか[2]、第二次セルビア侵攻作戦の計画を立案し、名を上げた。1916年夏にはガリツィアオーストリア=ハンガリー帝国第7軍参謀長[2]を務め、1917年末にはオスマン帝国軍総参謀長に就任している[2]

軍の最高実力者

敗戦後の1919年パリ講和会議ではドイツ側の陸軍代表として参加した[2]。またパウル・フォン・ヒンデンブルクの退任後には参謀本部総長を務めたが[2]ヴェルサイユ条約によりドイツは軍備を10万人に制限され、参謀本部も禁止された。しかし参謀本部は兵務局と偽装され、ゼークトはその局長に就任した[2]1920年カップ一揆社民党政治家のノスケ国防大臣の鎮圧命令を「軍は軍を撃たない」と拒否し、軍の独自性を確保した[2]。またヴァルター・ラインハルトとの政治闘争に勝利し、3月には陸軍統帥部長官 (Chef der Heeresleitung der Reichswehr、陸軍総司令官) に就任する[2]。ゼークトは10万人の陸軍をエリート化して将来拡大する国民軍の中核とする構想を抱いており[3]、また革命期のロシア(ソビエト連邦)と提携して再武装を行おうとした[4]。これはラパッロ条約の締結となって実を結び、ヴェルサイユ条約が禁じる戦車化学兵器航空機などの兵器をロシア奥地で開発研究することにつながった(これは「黒い国防軍」計画と呼ばれる)。

1923年ルール占領にともないドイツは混乱状態に陥った。11月5日、フリードリヒ・エーベルト大統領はヴァイマル憲法48条の非常大権を発動し、ゼークトに一種の軍事独裁権を付与した[1]。ゼークトはザクセン州テュービンゲンの左翼運動には即座に軍による弾圧を加えたものの、ミュンヘン一揆については国防軍の直接介入を避ける形で鎮圧した[1]

1926年、ヴュルテンベルクにおける歩兵連隊の演習にヴィルヘルム2世の孫ヴィルヘルム・フォン・プロイセン王子を独断で招待したことを、ゲスラー国防相を始めとする政府から非難されて辞職、退役した。

退役後

その後は軍事評論家として活動を行ったが[1]1930年から1932年まではドイツ人民党(Deutsche Volkspartei)の党員として国会に議席を得た[1]。1931年のハルツブルク戦線にも参加した[1]が、政治的には不遇であった。1932年の大統領選挙では現職のヒンデンブルクに不満を抱く右派によって候補として擁立する動きもあったが[1]、結局テオドール・デュスターベルクが出馬することになった。

中華民国との接触

1930年、国会に向かうゼークトと妻ドロテー。

一方、中華民国中国国民党政権は、相次ぐ内戦の中で、ドイツの軍事技術と兵器を求めていた[5]。ゼークトは1920年代から中華民国側と交渉において接触しており、中国側もゼークトに信頼感を抱いていた。1931年9月18日の満州事変後、国際連盟が事件の調査団を派遣しようとしていた際には、ドイツ代表としてゼークトが候補の一人となっていたが、蔣介石もドイツ代表としてゼークトを希望するほどだった[6]

またドイツ経済界にとっても中国市場は魅力的であり、中国各地にドイツ系の商社が置かれ、武器の輸出に関与していた[7]広州に本拠を置くペルツ中国商会もそんな企業の一つであり中国にドイツ製武器工場を建設しようとしていた。1931年には同社のアンドレアス・マイアー=マーダー退役大尉がゼークトに接触した[8]。この交渉は妥結しなかったものの、マイアー=マーダーは国民党広西派との間で広州に武器工場を建設するという協定を締結し、1932年7月にはゼークトと再び交渉を行った[9]。ゼークトはマイアー=マーダーにハンス・クラインを紹介し、この計画を支援することを決定した[10]。クラインはやがてペルツ中国商会を交渉の場から引きずり落とし、プロジェクトを独占しようとした[11]が、ゼークトはクラインの動きを完全に支持していた[12]

一方で蔣介石はドイツ大物軍人を中国に招待する希望を持っていた。蔣介石と国防部次長陳儀在華ドイツ軍事顧問団団長ゲオルク・ヴェッツェルと不仲であり、彼らは新たな団長としてゼークトをテストする構想を持っていた[12]。1932年5月には軍を通じてゼークトを中国旅行に招待したが[13]、政治的な動きを行っていたゼークトが中国訪問を決定したのは1933年1月30日のヒトラー内閣成立後だった[14]。1933年4月14日にはマルセイユを出港し、5月6日に香港に到着した[15]。ゼークトは日記に「私は静謐を得たいと考え、中国に来た。なんという皮肉であろう。それはすべて金のためだけなのだ。私はここで何をなすべきなのか。」[16]と記している。ゼークト夫人のドロテーは贅沢好きで知られており[17]、ゼークトが蔣介石の招待に応じたのは金銭が目的であった[18]。一方でドイツ外務省はドイツ軍人が国外で活動することを望んでおらず、また日本との関係を刺激することを怖れていた。外務省は帰途に日本を訪問するよう要請したが、ゼークトは「中国当局を不快にしかねない」と拒絶した[18]。蔣介石はゼークトに3万ライヒスマルクを贈っていたが、5月28日の会談後には1万ライヒスマルクをさらに贈呈した[19]。会談後には蔣介石夫人宋美齢を「夫よりはるかに勝る」と評価している[19]。その後ゼークトは北京に滞在していたが、ヴェッツェルの批判を行うようになり、蔣介石政権に接近しようとしていた。ゼークトの中国旅行にも協力したヴェッツェルはこの背信に怒り、ドイツ大使館に対してゼークトを「この男」呼ばわりする書簡を送っている[20]。一方でクラインおよび新広西派との関係は次第に重荷に感ずるようになっていた[21]。7月14日、ゼークトは帰国の途に就き、8月8日にマルセイユに到着した[20]

中華民国軍事顧問

ベルリン軍人墓地にあるゼークトの墓

9月29日、蔣介石はゼークトと再会する希望を打電し、9月30日には正式にヴェッツェルの後任として顧問団長就任を要請する書簡を送った[22]。ゼークトからこの報告を受けたコンスタンティン・フォン・ノイラート外務大臣はこの要請を断るように求めた[23]。ゼークトはこれに応じ、代わりに蔣介石の個人顧問としてアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン、軍事問題の再編担当顧問としてヴィルヘルム・ファウペルを推薦することにした[23]。しかし蔣介石は断念せず、ヴェッツェルの倍額の報酬を提示し、正規の外交ルートをも使ってゼークトの就任を要請した。ここにいたって外務省も2、3ヶ月の視察旅行としてのゼークト訪中を許可した[24]。ゼークトは妻ドロテーをともなって1934年3月9日に出発し[25]、4月8日に上海に到着した[25]

5月2日、ゼークトは蔣介石と会談し、国民政府軍の再編を委嘱された。ゼークトは主要な軍幹部と会談する権限を得、さらに蔣介石が不在の際の軍事指揮権をも委任された[26]。ゼークトは早速六個師団の編制を提案し[26]、蔣介石の厚い信任を得た。しかし体調を崩して多病となり、一時は死を危ぶまれるほどであった[26]。一方でゼークトはクラインと広西派のプロジェクト支援にも関与を求められ続けたが、蔣介石の不興を買うこのプロジェクトを忌避するようになっていった[27]。またドイツ本国の国防軍・外務省が広西派との関係強化をはかっていたが、ゼークトはこれらの事実を蔣介石に伝えることを躊躇していた。蔣介石はこれらの事実を察知し、言及しないゼークトに対する不信をかえって強めた。板挟みとなったゼークトは心身をすり減らし、1935年3月1日には顧問辞職の辞表を提出した[28]。蔣介石はこの辞表を受理しなかったものの、3ヶ月の帰国休暇を与えた[28]。そのまま帰国したゼークトは、二度と中国には戻らず、顧問団の役割はファルケンハウゼンに受け継がれた。ゼークトの在任中に上海周辺に構築された防御陣地は「ゼークトライン」と称される。陣地は1937年の第二次上海事変の際に、日本軍に大打撃を与えたものの、最終的には日本軍に攻略されている。

1936年4月、第67歩兵連隊(de:Kaiser Alexander Garde-Grenadier-Regiment Nr. 1)の名誉連隊長に叙された。12月17日にベルリンで死去した。

キャリア

階級

  • 1913年4月4日、中佐[29]
  • 1915年1月27日、大佐[29]
  • 1915年6月26日、少将[29]
  • 1920年6月18日、中将[29]
  • 1920年12月28日、歩兵大将[29]
  • 1926年1月1日、上級大将[29]

業績

ゼークトと将兵たち(1925年)

ゼークトは縮小を余儀なくされたドイツ陸軍の再建に貢献した人物として評価されているが、軍事理論家でもあり、また、それを実践した軍人でもあった。

ドイツの国防論について特に多くの考察を残しており、ヴェルサイユ条約によって陸上兵力は10万人以内とされた制限を尊重しながらも、以下のような軍事思想からドイツ軍を再建しようと考えた。

すなわち、新生ドイツ軍は少数精鋭であること、その錬度や士気は民兵や徴集兵に対して模範となる程度にまで高めるべきであること、現在の制限された10万人という兵員に対しては、将来に陸軍の規模が拡大されたときには優秀な幹部・下士官となるように専門的な訓練教育を行うことである。また、限られた兵力をカバーするための機動力を重要視しており、教育訓練においても部隊の運動を通じて部隊の質を上げようとした。

都市伝説としての「ゼークトの組織論」

軍人を4つのタイプに分類する「ゼークトの組織論」と呼ばれる軍事ジョークがあり[30]、ゼークトが以下のように語ったとされる。

  • 人間の資質は以下の4つの要素に大別できる。その4要素とは<利口><愚鈍><勤勉><怠慢>である。軍人としては、そのうちの2種類の組み合わせで以下のような適性に振り分けることができる。
  • 利口で勤勉 - 参謀に適している。
  • 利口で怠慢 - 指揮官に適している。
  • 愚鈍で怠慢 - 命令を忠実に実行するのみの役職に適している。
  • 愚鈍で勤勉 - このような者を軍隊において重用してはならない。

これは実際には同時期のドイツ軍人であったクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトが副官に述べたとされるもの[31]が元になっている。

何故“ゼークトの言”であるとされたのかについての経緯は定かではないが、一つに、日本においては戦争漫画家の小林源文の著作である『第2次朝鮮戦争 -ユギオII-』(初出『コンバットコミック』(日本出版社:刊)94年9月号~96年4月号掲載)の作中において

(前略)再編成は フォンゼークト流に やるんですか
(前略)ゼークトいわく 人間は4種類に大別できる 勤勉で頭のいい奴 なまけ者で頭のいい奴 勤勉で頭の悪い奴 なまけ者で頭の悪い奴(後略)」

と記述されており、この作品の初出はハンマーシュタイン=エクヴォルトについての著作[32]が日本で和訳・出版された年よりも前であったため、こちらの方で先に知られることになったためと推定される。

なお、日本においてはこの“ゼークトの組織論”として流布しているものは、ハンマーシュタイン=エクヴォルトの原典と比較すると「愚鈍で怠慢なタイプ」について「兵卒に向いている」「連絡将校程度ならこなせるだろう」とされたり、「愚かで勤勉なタイプ」について「軍人にしてはならない」「無能な働き者は処刑するしかない」等の改変が加えられている例がある。前述の小林源文『第2次朝鮮戦争 -ユギオII-』の作中では

軍隊で一番必要なのは 勤勉で頭のいい奴 参謀に適任だ 勝つための戦術を 立案できる
次になまけ者で 頭のいい奴 前線指揮官にすべきだ 必死で生き残るために 的確な指揮を するだろう
次になまけ者で 頭の悪い奴 命令されたことしか できないが充分だ すべての障害を 打ちたおす
最後に勤勉で 頭の悪い奴 そういうやつはさっさと 軍隊から追い出すか 銃殺にすべきだ
なぜなら 間違った命令でも 延々と続け 気がついたときは 取り返しがつかなく なってしまうからだ

と書かれている。

著書

訳書は現在のところ大戦中に刊行された3冊のみである。

  • 『ドイツ国の基本的諸問題』 齋藤栄治訳、育生社弘道閣、1943年
  • 『モルトケ』 齋藤栄治訳、岩波書店〈軍事文化叢書〉、1943年
  • 『一軍人の思想』 篠田英雄訳、岩波書店岩波新書〉、1940年、新装復刊2018年

研究書

  • 清水多吉石津朋之編 『クラウゼヴィッツと「戦争論」』 彩流社、2008年。
    ゼークトの戦略論の考察を含む最新研究。本書第8章、軍事史研究家の小堤盾が、ゼークト、ルーデンドルフ、ベックの軍事戦略思想について詳しく言及している。

脚注・出典

  1. ^ a b c d e f g 田嶋信雄 2008, pp. 11.
  2. ^ a b c d e f g h i j k 田嶋信雄 2008, pp. 10.
  3. ^ 黒川康「ドイツ国防軍と「レーム事件」--第1次世界大戦後のドイツ再軍備構想に関する一考察」『人文科学論集』第5巻、目白大学、1970年、p19-31、NAID 120002753885 
  4. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 10–11.
  5. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 15.
  6. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 22.
  7. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 15–16.
  8. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 16.
  9. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 17.
  10. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 17–18.
  11. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 19–20.
  12. ^ a b 田嶋信雄 2008, pp. 21.
  13. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 23.
  14. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 24.
  15. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 6.
  16. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 27.
  17. ^ ゼークトは中国滞在中にもしばしば妻の浪費を嘆く記述を日記に記している(田嶋信雄 2008, pp. 39)。
  18. ^ a b 田嶋信雄 2008, pp. 28.
  19. ^ a b 田嶋信雄 2008, pp. 29.
  20. ^ a b 田嶋信雄 2008, pp. 38–39.
  21. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 38.
  22. ^ 田嶋信雄 2008, pp. 40.
  23. ^ a b 田嶋信雄 2010, pp. 51.
  24. ^ 田嶋信雄 2010, pp. 51–53.
  25. ^ a b 田嶋信雄 2010, pp. 67.
  26. ^ a b c 田嶋信雄 2011, pp. 3.
  27. ^ 田嶋信雄 2011, pp. 15.
  28. ^ a b 田嶋信雄 2011, pp. 28.
  29. ^ a b c d e f Lexikon der Wehrmacht "von Seeckt, Johannes Friedrich Leopold"
  30. ^ ゼークトではなくエルヴィン・ロンメルもしくはフォン・モルトケ(大モルトケ)、あるいはエーリッヒ・フォン・マンシュタインの言である、とされている例もある。
  31. ^ "Horst Poller: Bewältigte Vergangenheit. Das 20. Jahrhundert, erlebt, erlitten, gestaltet. Verlag Olzog, 2010, 432 S., (ISBN 978-3789283727)"
  32. ^ ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー:著Hammerstein oder der Eigensinn. Eine deutsche Geschichte. Frankfurt am Main: Suhrkamp 2008. ISBN 978-3518419601/邦訳版, 丘沢静也:訳『がんこなハマーシュタイン―ヒトラーに屈しなかった将軍』(ISBN 978-4794967442)晶文社:刊、2009年

参考文献

  • 田嶋信雄「ゼークトの中国訪問 一九三三年 : ドイツ側の政治過程および中国政治への波紋 (横川新先生古稀祝賀記念号)」『成城法学』第77巻、成城大学、2008年、5-48頁、NAID 110006683460 
  • 田嶋信雄「ナチス・ドイツと中国国民政府 一九三三-一九三六年(一) : 中独条約成立の政治過程 (井上明先生古稀祝賀記念号)」『成城法学』第79 ,巻、成城大学、2010年、45-74頁、NAID 110007659698 
  • 田嶋信雄「ナチス・ドイツと中国国民政府 一九三三-一九三六年(二) : 中独条約成立の政治過程 (井上明先生古稀祝賀記念号)」『成城法学』第80巻、成城大学、2011年、1-34頁、NAID 110008699573 
軍職
先代
ヴァルター・ラインハルト
ドイツ陸軍統帥部長
1920年 - 1926年
次代
ヴィルヘルム・ハイエ
先代
陸軍参謀本部から改称
ドイツ陸軍兵務局長
1920年
次代
ヴィルヘルム・ハイエ
先代
ヴィルヘルム・グレーナー
ドイツ陸軍参謀総長
1919年
次代
陸軍兵務局に改称