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[[東京大学|東京帝国大学]]在学中に徴兵され、長崎に向かう途中の船上で米軍の爆撃を受け左腕を失った。長崎到着後は兄宅で療養していたが、[[長崎市への原子爆弾投下|原爆投下]]に遭った。終戦後、台湾に戻り、1948年に[[台湾大学]]政治系を卒業した。その間、彼の父は[[高雄市]]で[[228事件]]処理委員会の一人として[[中国国民党]]軍と面会したが捕らえられ、他の委員が惨殺された中、彼の父のみ釈放されたという。台湾大学卒業後、第一銀行に勤務したものの、すぐ大学に戻り助手となる。その後、カナダ・[[マギル大学]]で修士号、フランス・[[パリ大学]]で[[法学博士]]号を取得した。
[[東京大学|東京帝国大学]]在学中に徴兵され、長崎に向かう途中の船上で米軍の爆撃を受け左腕を失った。長崎到着後は兄宅で療養していたが、[[長崎市への原子爆弾投下|原爆投下]]に遭った。終戦後、台湾に戻り、1948年に[[台湾大学]]政治系を卒業した。その間、彼の父は[[高雄市]]で[[228事件]]処理委員会の一人として[[中国国民党]]軍と面会したが捕らえられ、他の委員が惨殺された中、彼の父のみ釈放されたという。台湾大学卒業後、第一銀行に勤務したものの、すぐ大学に戻り助手となる。その後、カナダ・[[マギル大学]]で修士号、フランス・[[パリ大学]]で[[法学博士]]号を取得した。


1964年、台湾大学の院生・[[謝聡敏]]と[[中央研究院]]の助手・[[魏廷朝]]とともに「台湾自救運動宣言」を発表し、8年の実刑判決を受けたが、[[アムネスティ・インターナショナル]]が彼の釈放を要求したため、[[中華民国総統|総統]]の[[介石]]も彼を釈放した。1970年に台湾を脱出し、その後20年余りの亡命生活を送った。その間、[[台湾独立運動]]に参加した。1990年の[[国是会議]]に招聘されたが、指名手配が解除されず、また同会議に法的な権限がないため、参加しなかった。
1964年、台湾大学の院生・[[謝聡敏]]と[[中央研究院]]の助手・[[魏廷朝]]とともに「台湾自救運動宣言」を発表し、8年の実刑判決を受けたが、[[アムネスティ・インターナショナル]]が彼の釈放を要求したため、[[中華民国総統|総統]]の[[介石]]も彼を釈放した。1970年に台湾を脱出し、その後20年余りの亡命生活を送った。その間、[[台湾独立運動]]に参加した。1990年の[[国是会議]]に招聘されたが、指名手配が解除されず、また同会議に法的な権限がないため、参加しなかった。


1992年に指名手配が解除されたため、台湾に帰国。1995年に辜寛敏らの推薦で[[民主進歩党]](民進党)に入党し、初の直接選挙となった[[1996年中華民国総統選挙|1996年総統選]]に総統候補として立候補したが、現職の[[李登輝]]に敗れ、次点で落選した。同年、民進党を離党し、建国会を結成した。2000年5月、[[陳水扁]]総統により総統府資政(上級顧問)に任命された。
1992年に指名手配が解除されたため、台湾に帰国。1995年に辜寛敏らの推薦で[[民主進歩党]](民進党)に入党し、初の直接選挙となった[[1996年中華民国総統選挙|1996年総統選]]に総統候補として立候補したが、現職の[[李登輝]]に敗れ、次点で落選した。同年、民進党を離党し、建国会を結成した。2000年5月、[[陳水扁]]総統により総統府資政(上級顧問)に任命された。

2020年9月15日 (火) 13:39時点における版

彭明敏
プロフィール
出生: (1923-08-15) 1923年8月15日(100歳)
出身地: 台湾高雄州(現:高雄市
職業: 国際法学者
各種表記
繁体字 彭明敏
簡体字 彭明敏
拼音 Pēng Míngmĭn
和名表記: ほう めいびん
発音転記: ポン ミンミン
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彭 明敏(ほう めいびん、1923年8月15日 - )は、台湾国際法学者。元台湾大学教授・政治学系主任、総統府資政(上級顧問)。

人物

東京帝国大学在学中に徴兵され、長崎に向かう途中の船上で米軍の爆撃を受け左腕を失った。長崎到着後は兄宅で療養していたが、原爆投下に遭った。終戦後、台湾に戻り、1948年に台湾大学政治系を卒業した。その間、彼の父は高雄市228事件処理委員会の一人として中国国民党軍と面会したが捕らえられ、他の委員が惨殺された中、彼の父のみ釈放されたという。台湾大学卒業後、第一銀行に勤務したものの、すぐ大学に戻り助手となる。その後、カナダ・マギル大学で修士号、フランス・パリ大学法学博士号を取得した。

1964年、台湾大学の院生・謝聡敏中央研究院の助手・魏廷朝とともに「台湾自救運動宣言」を発表し、8年の実刑判決を受けたが、アムネスティ・インターナショナルが彼の釈放を要求したため、総統蔣介石も彼を釈放した。1970年に台湾を脱出し、その後20年余りの亡命生活を送った。その間、台湾独立運動に参加した。1990年の国是会議に招聘されたが、指名手配が解除されず、また同会議に法的な権限がないため、参加しなかった。

1992年に指名手配が解除されたため、台湾に帰国。1995年に辜寛敏らの推薦で民主進歩党(民進党)に入党し、初の直接選挙となった1996年総統選に総統候補として立候補したが、現職の李登輝に敗れ、次点で落選した。同年、民進党を離党し、建国会を結成した。2000年5月、陳水扁総統により総統府資政(上級顧問)に任命された。

2011年11月には、2012年総統選立法委員選挙(2012年1月14日同日選挙)の無事進行などを実現するための国際委員監視団「台湾公正選挙国際委員会(ICFET)」を設立し、主席に就任した。

著書『台湾の法的地位』(東京大学出版会、1976年)は、台湾独立論の法的根拠である台湾地位未定論の嚆矢とされる。