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==概要==
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[[奉直戦争#第二次奉直戦争|第二次直奉戦争]]時、馬鴻逵の部隊は[[馮玉祥]]の[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]に編入された。[[1926年]]、 馬鴻逵は馮玉祥から国民連軍第四路軍の司令官に任命された。[[1927年]]、馬鴻逵と馮玉祥は部隊を引き連れ[[陝西省]][[潼関]]に進駐し、[[北伐 (中国国民党)|北伐]]軍と戦った。[[1929年]]、馮玉祥と[[介石]]が次第に対立を深めていく中、馬鴻逵親子は馮玉祥に見切りをつけ、アメリカやイギリスを後ろ盾にもっていた介石についた。[[1930年]]、[[中原大戦]]が勃発し、馬鴻逵は介石側につき第六十四師団長となり奮闘し忠誠をみせ、[[山東省]][[泰安市|泰安]]の制圧後第十五路軍司令官に昇進された。


[[1932年]]、馬鴻逵は寧夏省主席(知事)に任命され、[[1937年]]に日本軍の総攻撃を開始されるまで陝西 - 寧夏地帯で中国共産党勢力と戦いを繰り返した。また、同時期に自分達の縄張りで甥の[[馬仲英]]と張り合いたくなかった[[馬歩芳]]、[[馬歩青]]、馬鴻逵、[[馬鴻賓]]達は馬仲英に[[甘粛]]、[[新疆]]など他地域で発展することを勧めそれを支援した。
[[1932年]]、馬鴻逵は寧夏省主席(知事)に任命され、[[1937年]]に日本軍の総攻撃を開始されるまで陝西 - 寧夏地帯で中国共産党勢力と戦いを繰り返した。また、同時期に自分達の縄張りで甥の[[馬仲英]]と張り合いたくなかった[[馬歩芳]]、[[馬歩青]]、馬鴻逵、[[馬鴻賓]]達は馬仲英に[[甘粛]]、[[新疆]]など他地域で発展することを勧めそれを支援した。
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[[日中戦争]]勃発後、馬鴻逵は従兄の[[馬鴻賓]]の部隊と合わせて第17集団軍に編成され、馬鴻逵は第17集団軍総司令及び[[抗日戦争第8戦区|第8戦区]]副司令長官に任命された。


日本投降後、[[国共内戦]]が勃発し、馬鴻逵は介石の[[中国国民党]]側につき共産党と戦った。[[1949年]]、国民党の敗色が濃厚になると、馬鴻逵は[[台湾]]に逃れた。台湾で馬鴻逵は[[監察院]]から自領での敗戦責任を問われ、病気の[[側室]]を探訪する名目で[[香港]]に逃走した。[[1950年]]、[[クレア・リー・シェンノート]]の協力の下に馬鴻逵はアメリカに逃れ、[[1970年]]1月14日に死去するまで[[ロサンゼルス]]で[[牧場]]を営んだ。
日本投降後、[[国共内戦]]が勃発し、馬鴻逵は介石の[[中国国民党]]側につき共産党と戦った。[[1949年]]、国民党の敗色が濃厚になると、馬鴻逵は[[台湾]]に逃れた。台湾で馬鴻逵は[[監察院]]から自領での敗戦責任を問われ、病気の[[側室]]を探訪する名目で[[香港]]に逃走した。[[1950年]]、[[クレア・リー・シェンノート]]の協力の下に馬鴻逵はアメリカに逃れ、[[1970年]]1月14日に死去するまで[[ロサンゼルス]]で[[牧場]]を営んだ。


==経歴==
==経歴==

2020年9月15日 (火) 13:49時点における版

馬鴻逵
プロフィール
出生: 1892年3月9日
光緒18年2月11日)
死去: 1970年1月14日
アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
出身地: 清の旗 甘粛省蘭州府河州城
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 馬鴻逵
簡体字 马鸿逵
拼音 Mă Hóngkuí
ラテン字 Ma Hung-k'ui
和名表記: ば こうき
発音転記: マー ホンクイ
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馬 鴻逵(ば こうき)は中華民国初期に寧夏地方の西北部を支配した回族軍閥馬家軍の長の一人。父馬福祥のあとを継ぎ寧夏新軍を率い、「寧夏王」と呼ばれた。

概要

国民政府の首脳部と(1934年)
一番左が馬鴻逵。それより右へ叔父の馬福壽・胡宗南張学良蔣介石。一番右が鴻逵の妻。

第二次直奉戦争時、馬鴻逵の部隊は馮玉祥国民軍に編入された。1926年、 馬鴻逵は馮玉祥から国民連軍第四路軍の司令官に任命された。1927年、馬鴻逵と馮玉祥は部隊を引き連れ陝西省潼関に進駐し、北伐軍と戦った。1929年、馮玉祥と蔣介石が次第に対立を深めていく中、馬鴻逵親子は馮玉祥に見切りをつけ、アメリカやイギリスを後ろ盾にもっていた蔣介石についた。1930年中原大戦が勃発し、馬鴻逵は蔣介石側につき第六十四師団長となり奮闘し忠誠をみせ、山東省泰安の制圧後第十五路軍司令官に昇進された。

1932年、馬鴻逵は寧夏省主席(知事)に任命され、1937年に日本軍の総攻撃を開始されるまで陝西 - 寧夏地帯で中国共産党勢力と戦いを繰り返した。また、同時期に自分達の縄張りで甥の馬仲英と張り合いたくなかった馬歩芳馬歩青、馬鴻逵、馬鴻賓達は馬仲英に甘粛新疆など他地域で発展することを勧めそれを支援した。

日中戦争勃発後、馬鴻逵は従兄の馬鴻賓の部隊と合わせて第17集団軍に編成され、馬鴻逵は第17集団軍総司令及び第8戦区副司令長官に任命された。

日本投降後、国共内戦が勃発し、馬鴻逵は蔣介石の中国国民党側につき共産党と戦った。1949年、国民党の敗色が濃厚になると、馬鴻逵は台湾に逃れた。台湾で馬鴻逵は監察院から自領での敗戦責任を問われ、病気の側室を探訪する名目で香港に逃走した。1950年クレア・リー・シェンノートの協力の下に馬鴻逵はアメリカに逃れ、1970年1月14日に死去するまでロサンゼルス牧場を営んだ。

経歴

関連項目

参考文献

  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
門致中
寧夏省政府主席
1931年6月 - 1949年
次代
(廃止)
先代
郭寄嶠
甘粛省政府主席
1949年7月
次代
丁宜中(代理)