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「銭永銘・周作民工作」の版間の差分

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'''銭永銘・周作民工作'''(せんえんめい・しゅうさくみんこうさく)とは、[[1940年]]9月以降におこなわれた[[日中戦争]]の[[和平]][[工作]]。[[第2次近衛内閣]]の[[松岡洋右]]外相によってなされた工作で、1940年11月に表面化した。[[銭永銘]]および[[周作民]]を[[介石政権]]との仲介者としたことにより、この名がある。'''香港工作'''(ほんこんこうさく)、'''松岡・銭永銘工作'''(まつおか・せんえんめいこうさく)などと呼ばれることもある。
'''銭永銘・周作民工作'''(せんえんめい・しゅうさくみんこうさく)とは、[[1940年]]9月以降におこなわれた[[日中戦争]]の[[和平]][[工作]]。[[第2次近衛内閣]]の[[松岡洋右]]外相によってなされた工作で、1940年11月に表面化した。[[銭永銘]]および[[周作民]]を[[介石政権]]との仲介者としたことにより、この名がある。'''香港工作'''(ほんこんこうさく)、'''松岡・銭永銘工作'''(まつおか・せんえんめいこうさく)などと呼ばれることもある。


== 松岡の外相就任 ==
== 松岡の外相就任 ==
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== 汪兆銘工作と桐工作 ==
== 汪兆銘工作と桐工作 ==
{{See also|汪兆銘工作|桐工作}}
{{See also|汪兆銘工作|桐工作}}
日中戦争については、その発生当初より[[船津和平工作]]、[[トラウトマン和平工作]]、[[宇垣工作]]など、和平が幾度も試みられてきたが、いずれも失敗した。[[汪兆銘工作]]は、国民政府のナンバー2であった[[汪兆銘]]の担ぎ出しに成功し、[[南京市|南京]]に[[汪兆銘政権]](南京国民政府)の成立をもたらしたが、[[介石]]の[[介石政権|重慶国民政府]]は日本に対する徹底抗戦を唱えており、[[重慶市|重慶]]との和平は依然として日中戦争打開のためには優先すべき課題だったのである<ref name="shimada463">[[#島田|島田(1980)p.463]]</ref><ref name="kawashima165">[[#川島|川島(2018)pp.165-167]]</ref>。そこで、[[桐工作]]が並行して進められたが、これもまた失敗に終わった<ref name="tbs103">[[#TBS|『ブリタニカ国際大百科事典15』「日華事変」(1974)pp.103-104]]</ref>。
日中戦争については、その発生当初より[[船津和平工作]]、[[トラウトマン和平工作]]、[[宇垣工作]]など、和平が幾度も試みられてきたが、いずれも失敗した。[[汪兆銘工作]]は、国民政府のナンバー2であった[[汪兆銘]]の担ぎ出しに成功し、[[南京市|南京]]に[[汪兆銘政権]](南京国民政府)の成立をもたらしたが、[[介石]]の[[介石政権|重慶国民政府]]は日本に対する徹底抗戦を唱えており、[[重慶市|重慶]]との和平は依然として日中戦争打開のためには優先すべき課題だったのである<ref name="shimada463">[[#島田|島田(1980)p.463]]</ref><ref name="kawashima165">[[#川島|川島(2018)pp.165-167]]</ref>。そこで、[[桐工作]]が並行して進められたが、これもまた失敗に終わった<ref name="tbs103">[[#TBS|『ブリタニカ国際大百科事典15』「日華事変」(1974)pp.103-104]]</ref>。


== 松岡の工作 ==
== 松岡の工作 ==
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{{See also|銭永銘|周作民}}
{{See also|銭永銘|周作民}}
松岡は外相就任後、[[ドイツ]]外務省を通じて重慶の介石政権との交渉を打診し、介石の重慶国民党政府と汪兆銘の南京国民党政府の合体を図った<ref name="tbs104">[[#TBS|『ブリタニカ国際大百科事典15』「日華事変」(1974)p.104]]</ref>。一方では、[[浙江財閥]]の実業家である[[銭永銘]]と[[周作民]]を仲立ちとして重慶政府とも連絡を取り合っていた<ref name="tbs104"/>。
松岡は外相就任後、[[ドイツ]]外務省を通じて重慶の介石政権との交渉を打診し、介石の重慶国民党政府と汪兆銘の南京国民党政府の合体を図った<ref name="tbs104">[[#TBS|『ブリタニカ国際大百科事典15』「日華事変」(1974)p.104]]</ref>。一方では、[[浙江財閥]]の実業家である[[銭永銘]]と[[周作民]]を仲立ちとして重慶政府とも連絡を取り合っていた<ref name="tbs104"/>。


松岡の考えは、日中戦争を解決すれば日米関係は好転するはずであり<ref name="kase156">[[#加瀬|加瀬(1983)pp.156-157]]</ref>、一方、日・独・伊の三国同盟の目的は[[アメリカ合衆国]]の[[第二次世界大戦]]への参戦を阻止しつつ、[[ソビエト連邦]]を誘引するためである、というものだった<ref name="kase149">[[#加瀬|加瀬(1983)pp.149-150]]</ref>。彼によれば、ソ連の誘引もまた結局は日米友好回復の手段であって、日米関係がここまで険悪の度を強めてしまっている以上、単に親善を唱えても事態は好転せず、当面は三国同盟、さらにソ連を加えた四国協商によって威圧するほかないということだったのである<ref name="kase149"/>。松岡自身は、中国問題について[[フランクリン・ルーズベルト]]米大統領、そして、汪兆銘の同意が得られるのであれば介石とも会談するつもりであり、そのための工作であった<ref name="kase156"/>。
松岡の考えは、日中戦争を解決すれば日米関係は好転するはずであり<ref name="kase156">[[#加瀬|加瀬(1983)pp.156-157]]</ref>、一方、日・独・伊の三国同盟の目的は[[アメリカ合衆国]]の[[第二次世界大戦]]への参戦を阻止しつつ、[[ソビエト連邦]]を誘引するためである、というものだった<ref name="kase149">[[#加瀬|加瀬(1983)pp.149-150]]</ref>。彼によれば、ソ連の誘引もまた結局は日米友好回復の手段であって、日米関係がここまで険悪の度を強めてしまっている以上、単に親善を唱えても事態は好転せず、当面は三国同盟、さらにソ連を加えた四国協商によって威圧するほかないということだったのである<ref name="kase149"/>。松岡自身は、中国問題について[[フランクリン・ルーズベルト]]米大統領、そして、汪兆銘の同意が得られるのであれば介石とも会談するつもりであり、そのための工作であった<ref name="kase156"/>。


その結果、[[第1次近衛内閣]]の改造内閣で外務大臣であった[[宇垣一成]]の情報路線(宇垣工作)において日本側と接触したことのあるジャーナリストの[[張季鸞]]が、1940年[[11月19日]]、介石政府による和平条件案をたずさえて[[イギリス領香港]]に現れたのである<ref name="tbs104"/>。その条件は、[[日本軍]]の中国からの全面撤兵と南京国民政府(汪政権)の承認中止であった<ref name="tbs104"/>。
その結果、[[第1次近衛内閣]]の改造内閣で外務大臣であった[[宇垣一成]]の情報路線(宇垣工作)において日本側と接触したことのあるジャーナリストの[[張季鸞]]が、1940年[[11月19日]]、介石政府による和平条件案をたずさえて[[イギリス領香港]]に現れたのである<ref name="tbs104"/>。その条件は、[[日本軍]]の中国からの全面撤兵と南京国民政府(汪政権)の承認中止であった<ref name="tbs104"/>。


== 工作打ち切り ==
== 工作打ち切り ==
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{{See also|汪兆銘政権}}
{{See also|汪兆銘政権}}
一方、これに先立つ1940年[[11月13日]]、日本政府内部では[[御前会議]]において「[[支那事変処理要綱]]」が決定されており、そこでは、和平交渉は汪兆銘・介石両政府の合作を軸として、原則としては重慶とは直接連絡をとること、に抗日政策の廃棄を求め、一定期間、一定の地域に限り日本軍の駐留を認めさせることを和平条件の基礎に置いていた<ref name="tbs104"/>。すなわち、日本と介石政権のあいだの和平条件はまったく食い違っており、折り合う要素がなかったのである<ref name="tbs104"/>。また、汪兆銘政権を支援していた陸軍も張季鸞のもたらした和平案に反発し、結局、工作は打ち切られることとなった{{Sfn|斎藤良衛||p=420}}。
一方、これに先立つ1940年[[11月13日]]、日本政府内部では[[御前会議]]において「[[支那事変処理要綱]]」が決定されており、そこでは、和平交渉は汪兆銘・介石両政府の合作を軸として、原則としては重慶とは直接連絡をとること、に抗日政策の廃棄を求め、一定期間、一定の地域に限り日本軍の駐留を認めさせることを和平条件の基礎に置いていた<ref name="tbs104"/>。すなわち、日本と介石政権のあいだの和平条件はまったく食い違っており、折り合う要素がなかったのである<ref name="tbs104"/>。また、汪兆銘政権を支援していた陸軍も張季鸞のもたらした和平案に反発し、結局、工作は打ち切られることとなった{{Sfn|斎藤良衛||p=420}}。


日本政府は[[11月30日]]、汪兆銘の南京国民政府を承認した<ref name="tbs104"/>。日本が汪政権を正当な中国政府として承認したのは、松岡の外相在任時ということになる。松岡はこの件について、以下のように述べて嘆いている{{Sfn|斎藤良衛||p=426}}。
日本政府は[[11月30日]]、汪兆銘の南京国民政府を承認した<ref name="tbs104"/>。日本が汪政権を正当な中国政府として承認したのは、松岡の外相在任時ということになる。松岡はこの件について、以下のように述べて嘆いている{{Sfn|斎藤良衛||p=426}}。

2020年9月15日 (火) 14:51時点における版

松岡洋右

銭永銘・周作民工作(せんえんめい・しゅうさくみんこうさく)とは、1940年9月以降におこなわれた日中戦争和平工作第2次近衛内閣松岡洋右外相によってなされた工作で、1940年11月に表面化した。銭永銘および周作民蔣介石政権との仲介者としたことにより、この名がある。香港工作(ほんこんこうさく)、松岡・銭永銘工作(まつおか・せんえんめいこうさく)などと呼ばれることもある。

松岡の外相就任

1940年7月19日荻外荘で行われた荻窪会談
左から近衛文麿松岡洋右吉田善吾東條英機

1940年(昭和15年)7月、大命降下を受けて第2次内閣を組織することとなった近衛文麿外務大臣として民間の松岡洋右を指名した。松岡は軍部に人気があり、また彼の強い性格が軍部を押さえることを期待しての指名であった[1][注釈 1]。外相就任が内定した松岡は、自分が外相を引き受ける以上は軍人に外交の口出しはさせないと宣言した[1]7月19日、近衛が陸・海・外の3大臣内定者(東條英機吉田善吾、松岡)を自らの別宅に招いた「荻窪会談」では、松岡は外交における自身のリーダーシップの確保を強く要望し、これについては他の3人も了承した。しかし、翌日、東條が松岡に持ち込んだ「協議事項」の大部分は外交案件であり、松岡も外交問題から軍部のかかわりを清算することは困難であることを認識せざるを得なかった[1]第2次近衛内閣7月22日に成立し、松岡は外相に就任したが、当時の大きな外交問題は、泥沼化していた日中戦争、険悪となっていた日米関係、そして陸軍主張の日独伊三国同盟案であった。

汪兆銘工作と桐工作

日中戦争については、その発生当初より船津和平工作トラウトマン和平工作宇垣工作など、和平が幾度も試みられてきたが、いずれも失敗した。汪兆銘工作は、国民政府のナンバー2であった汪兆銘の担ぎ出しに成功し、南京汪兆銘政権(南京国民政府)の成立をもたらしたが、蔣介石重慶国民政府は日本に対する徹底抗戦を唱えており、重慶との和平は依然として日中戦争打開のためには優先すべき課題だったのである[3][4]。そこで、桐工作が並行して進められたが、これもまた失敗に終わった[5]

松岡の工作

銭永銘
周作民

松岡は外相就任後、ドイツ外務省を通じて重慶の蔣介石政権との交渉を打診し、蔣介石の重慶国民党政府と汪兆銘の南京国民党政府の合体を図った[6]。一方では、浙江財閥の実業家である銭永銘周作民を仲立ちとして重慶政府とも連絡を取り合っていた[6]

松岡の考えは、日中戦争を解決すれば日米関係は好転するはずであり[7]、一方、日・独・伊の三国同盟の目的はアメリカ合衆国第二次世界大戦への参戦を阻止しつつ、ソビエト連邦を誘引するためである、というものだった[8]。彼によれば、ソ連の誘引もまた結局は日米友好回復の手段であって、日米関係がここまで険悪の度を強めてしまっている以上、単に親善を唱えても事態は好転せず、当面は三国同盟、さらにソ連を加えた四国協商によって威圧するほかないということだったのである[8]。松岡自身は、中国問題についてフランクリン・ルーズベルト米大統領、そして、汪兆銘の同意が得られるのであれば蔣介石とも会談するつもりであり、そのための工作であった[7]

その結果、第1次近衛内閣の改造内閣で外務大臣であった宇垣一成の情報路線(宇垣工作)において日本側と接触したことのあるジャーナリストの張季鸞が、1940年11月19日、蔣介石政府による和平条件案をたずさえてイギリス領香港に現れたのである[6]。その条件は、日本軍の中国からの全面撤兵と南京国民政府(汪政権)の承認中止であった[6]

工作打ち切り

汪兆銘

一方、これに先立つ1940年11月13日、日本政府内部では御前会議において「支那事変処理要綱」が決定されており、そこでは、和平交渉は汪兆銘・蔣介石両政府の合作を軸として、原則としては重慶とは直接連絡をとること、蔣に抗日政策の廃棄を求め、一定期間、一定の地域に限り日本軍の駐留を認めさせることを和平条件の基礎に置いていた[6]。すなわち、日本と蔣介石政権のあいだの和平条件はまったく食い違っており、折り合う要素がなかったのである[6]。また、汪兆銘政権を支援していた陸軍も張季鸞のもたらした和平案に反発し、結局、工作は打ち切られることとなった[9]

日本政府は11月30日、汪兆銘の南京国民政府を承認した[6]。日本が汪政権を正当な中国政府として承認したのは、松岡の外相在任時ということになる。松岡はこの件について、以下のように述べて嘆いている[10]

外交がむづかしいことを今更知ったわけではないが、外交一文化の四巨頭会談の了解事項が踏みにじられたのは残念だ。満洲国だけを確保して、中国からは全面的に撤退するのが一番良いかと思うが、それは少なくとも当分実行不可能である[10]

一方、これまで帝国陸軍当局も含めて各方面がおこなっていた日本側の対中和平工作は、以後、日本政府が執り行うこととなった[6]

同日、日本政府と汪兆銘政権は、南京において日華基本条約(日本国中華民国基本関係に関する条約)と日満華共同宣言に調印した[4][注釈 2]

脚注

注釈

  1. ^ 1932年国際連盟脱退演説の後、松岡は立憲政友会を脱党して代議士を辞職し、1934年、「政党解消連盟」を結成して政党解消運動に乗り出したが、それも1年で中断した。1935年昭和天皇の側近であった牧野伸顕が天皇の意向であることも持ち出して南満洲鉄道総裁の職に就くことを勧めたため、満鉄総裁職に就任していた[2]
  2. ^ 汪兆銘はこのとき始めて南京国民政府の「主席」に就任した(それまでは「主席代理」。名目上の主席には重慶政府の重鎮林森があてられていた。この「就任」は、日華基本条約調印の資格として主席の肩書が必要だったためである。なお、日華基本条約調印のため、日本からは阿部信行元首相が特使として派遣された。

出典

参考文献

  • フランク・B・ギブニー 編「日華事変」『ブリタニカ国際大百科事典15』ティビーエス・ブリタニカ、1974年10月。 
  • 加瀬俊一「松岡洋右-「国際秩序」変革の異色の存在-」『日本のリーダー4 日本外交の旗手』1983年6月。ASIN B000J79BP4 
  • 川島真「「傀儡政権」とは何か-汪精衛政権を中心に-」『決定版 日中戦争』新潮社〈新潮新書〉、2018年11月。ISBN 978-4-10-610788-7 
  • 島田俊彦 著「汪兆銘工作」、国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典第2巻 う―お』吉川弘文館、1980年7月。 

関連項目

外部リンク