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1906年、劉復基は武漢経由で中国に戻り、[[劉静庵]]が率いる[[日知会]]に参加した。長沙に戻った後、彼は地元の「[[民報|人民日報]]」と「[[中国および西部の新聞|中西報]]」の発行を担当した。
1906年、劉復基は武漢経由で中国に戻り、[[劉静庵]]が率いる[[日知会]]に参加した。長沙に戻った後、彼は地元の「[[民報|人民日報]]」と「[[中国および西部の新聞|中西報]]」の発行を担当した。


同年夏、禹之謨らの組織が[[陳天華]]と[[姚宏業]]の埋葬を行い、湖南革命の機運が高まった<ref>《湘江評論》第4号,“本会総記”,転引自湖南史学会編:《辛亥革命在湖南論文集》,湖南人民出版社1984年4月第1版,第371-372頁</ref>。しかし禹之謨が逮捕されると劉復基は常徳を逃れ、[[翊武]]と連絡を取りながら人員を集めに奔走し、頭角を現すようになった。一時は常徳{{仮リンク|祗園寺|zh|祗園寺}}を設立して湘西革命を起こそうとしたものの、当局の役人[[廖世英]]に察知されてしまい、劉復基は翊武と共に上海に逃れた。その後中国同盟会の会員である[[楊卓霖]]の「[[競業旬報]]」の運営を補助し、中国同盟会に翊武を紹介した<ref>《文学社武昌首義紀実》,第11頁</ref>。
同年夏、禹之謨らの組織が[[陳天華]]と[[姚宏業]]の埋葬を行い、湖南革命の機運が高まった<ref>《湘江評論》第4号,“本会総記”,転引自湖南史学会編:《辛亥革命在湖南論文集》,湖南人民出版社1984年4月第1版,第371-372頁</ref>。しかし禹之謨が逮捕されると劉復基は常徳を逃れ、[[翊武]]と連絡を取りながら人員を集めに奔走し、頭角を現すようになった。一時は常徳{{仮リンク|祗園寺|zh|祗園寺}}を設立して湘西革命を起こそうとしたものの、当局の役人[[廖世英]]に察知されてしまい、劉復基は翊武と共に上海に逃れた。その後中国同盟会の会員である[[楊卓霖]]の「[[競業旬報]]」の運営を補助し、中国同盟会に翊武を紹介した<ref>《文学社武昌首義紀実》,第11頁</ref>。


1907年、[[両江総督]]の[[端方]]の刺殺を試みたとして楊卓霖が逮捕され、「競業旬報」は出版停止となった。 劉復基と翊武はそれぞれ故郷に潜伏した。
1907年、[[両江総督]]の[[端方]]の刺殺を試みたとして楊卓霖が逮捕され、「競業旬報」は出版停止となった。 劉復基と翊武はそれぞれ故郷に潜伏した。


1909年秋、劉復基の兄である劉星澂は、劉復基を[[翊武]]が[[漢口]]で活動する「商務報」へ誘い、劉復基は会計と編集長を務めた。 彼と翊武と{{仮リンク|詹大悲|zh|詹大悲}}は新聞と定期刊行物を拠点として仲間を集め<ref name="辛亥武昌首義人物伝">《辛亥武昌首義人物伝》下冊,第550頁</ref> 、地元の革命団体である[[文学社|群志学社]]との関係を確立した。
1909年秋、劉復基の兄である劉星澂は、劉復基を[[翊武]]が[[漢口]]で活動する「商務報」へ誘い、劉復基は会計と編集長を務めた。 彼と翊武と{{仮リンク|詹大悲|zh|詹大悲}}は新聞と定期刊行物を拠点として仲間を集め<ref name="辛亥武昌首義人物伝">《辛亥武昌首義人物伝》下冊,第550頁</ref> 、地元の革命団体である[[文学社|群志学社]]との関係を確立した。


1910年、立憲派の[[楊度]]を処罰しようとしたため、劉復基もイギリス警官に8時間拘束され、「商務報」も活動停止を余儀なくされた<ref>《辛亥首義回憶録》第2輯,第135頁;《武昌起義档案資料選編》中巻,第316頁</ref>。群志学社の社員はほとんど[[新軍]]兵士であったため、劉復基も新軍に入隊、第二十一混合協四十一標に配属される傍らで、革命工作を行った。
1910年、立憲派の[[楊度]]を処罰しようとしたため、劉復基もイギリス警官に8時間拘束され、「商務報」も活動停止を余儀なくされた<ref>《辛亥首義回憶録》第2輯,第135頁;《武昌起義档案資料選編》中巻,第316頁</ref>。群志学社の社員はほとんど[[新軍]]兵士であったため、劉復基も新軍に入隊、第二十一混合協四十一標に配属される傍らで、革命工作を行った。
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だがこの判断は当局に群志学社の存在を気付かせる事となり、9月18日、劉復基は群志学社を「[[文学社|振武学社]]」と改名、[[楊王鵬]]を社長に任命した。実態の活動としては、全て劉復基が取り仕切っていた。
だがこの判断は当局に群志学社の存在を気付かせる事となり、9月18日、劉復基は群志学社を「[[文学社|振武学社]]」と改名、[[楊王鵬]]を社長に任命した。実態の活動としては、全て劉復基が取り仕切っていた。


やがて瑞澂が[[湖広総督]]となると、革命党員への警戒が厳重になったため、楊王鵬と{{仮リンク|李六如|zh|李六如}}は辞任し、劉復基と翊武は引き続き組織活動を率いた<ref>《辛亥首義回憶録》第3輯,第35-36頁</ref>。
やがて瑞澂が[[湖広総督]]となると、革命党員への警戒が厳重になったため、楊王鵬と{{仮リンク|李六如|zh|李六如}}は辞任し、劉復基と翊武は引き続き組織活動を率いた<ref>《辛亥首義回憶録》第3輯,第35-36頁</ref>。


翌年1月、振武学社は文学社に再編され、劉復基が評議部長に任命された。
翌年1月、振武学社は文学社に再編され、劉復基が評議部長に任命された。
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9月、文学社と共進会は湖北革命軍総指揮部を組織。劉復基は総会において調停役となった<ref>《辛亥首義回憶録》第1輯,第77頁注1</ref>。彼は参院および湖北革命軍総司令部の3人の軍事準備官の長に任命され、[[武昌起義]]の行動計画を策定した<ref>《辛亥首義回憶録》第2輯,湖北人民出版社1980年2月第2版,第139-142頁</ref>。決起は当初10月6日に予定されていたが、湖南省での資金調達が遅れ、実施できずにいた。
9月、文学社と共進会は湖北革命軍総指揮部を組織。劉復基は総会において調停役となった<ref>《辛亥首義回憶録》第1輯,第77頁注1</ref>。彼は参院および湖北革命軍総司令部の3人の軍事準備官の長に任命され、[[武昌起義]]の行動計画を策定した<ref>《辛亥首義回憶録》第2輯,湖北人民出版社1980年2月第2版,第139-142頁</ref>。決起は当初10月6日に予定されていたが、湖南省での資金調達が遅れ、実施できずにいた。


10月9日、[[孫武 (清末民初)|孫武]]が爆弾の暴発事故を起こし、当局の注意を引く。劉復基は翊武らと共に小朝街にある本部で緊急会議を開催。夜には決起を行うことを決定するが、その会議の最中に清軍による襲撃を受けてしまう。翊武は逃亡に成功したが、劉復基は彭楚藩・楊宏勝と共に清軍に逮捕され、10日早朝に[[斬首刑]]に処された<ref>《辛亥武昌首義人物伝》下冊,553頁</ref>。
10月9日、[[孫武 (清末民初)|孫武]]が爆弾の暴発事故を起こし、当局の注意を引く。劉復基は翊武らと共に小朝街にある本部で緊急会議を開催。夜には決起を行うことを決定するが、その会議の最中に清軍による襲撃を受けてしまう。翊武は逃亡に成功したが、劉復基は彭楚藩・楊宏勝と共に清軍に逮捕され、10日早朝に[[斬首刑]]に処された<ref>《辛亥武昌首義人物伝》下冊,553頁</ref>。


10月10日夜、[[金兆龍]]と[[程定国]]の2名が上官である[[陶啓勝]]の就寝命令を巡ってトラブルとなった末に陶啓勝を銃殺する事件が起きる。それを好機と見た[[共進会]]代表[[熊秉坤]]は[[反乱|決起]]し、[[武昌起義]]が勃発した。
10月10日夜、[[金兆龍]]と[[程定国]]の2名が上官である[[陶啓勝]]の就寝命令を巡ってトラブルとなった末に陶啓勝を銃殺する事件が起きる。それを好機と見た[[共進会]]代表[[熊秉坤]]は[[反乱|決起]]し、[[武昌起義]]が勃発した。

2020年9月15日 (火) 15:44時点における版

劉復基
プロフィール
出生: 1885年1月20日
死去: 1911年10月10日
職業: 革命家軍人
出生地: 清の旗 湖南省常徳府武陵県
死没地: 清の旗 湖北省武昌
各種表記
繁体字 劉復基
簡体字 刘复基
拼音 Liú Fùjī
ラテン字 Liu Fuji
和名表記: りゅう ふくき
発音転記: リウ・フージー
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劉復基(りゅう ふくき、1885年1月20日 - 1911年10月10日[1])は、清朝末期の中国同盟会分派の一つである文学社の発起人で、武昌起義を計画した一人。別名は汝夔堯澂、または堯臣瑤臣湖南省常徳府武陵県の出身。武昌起義勃発直前に湖広総督瑞澂により、彭楚藩楊宏勝と共に斬首刑に処され、「彭劉楊三烈士」と呼称されるようになった。

生涯

劉復基(左)、彭楚藩(右)は清軍に捕らえられ、反乱事件の首謀者として斬首刑となった。

劉復基は、光緒10年12月5日(1885年1月20日[1])に農民の家庭に生まれた。顧炎武王夫之の書籍の影響を受け、華夷思想を持っていた[2]

1904年、劉復基は武陵県の高校を卒業後、湖南哥老会で活動した。同年に黄興宋教仁、そして哥老会湖南の首領馬福益が清朝に対する蜂起を計画する際に彼らに加わり、常徳や近隣の湘西地域を担当した。蜂起後は常徳の柳葉湖に逃れた。

翌年4月、劉復基と馬福益は洪江での蜂起に再び失敗、馬福益は逮捕処刑された。劉復基は日本に逃れ、8月に東京中国同盟会に参加した。

1906年、劉復基は武漢経由で中国に戻り、劉静庵が率いる日知会に参加した。長沙に戻った後、彼は地元の「人民日報」と「中西報」の発行を担当した。

同年夏、禹之謨らの組織が陳天華姚宏業の埋葬を行い、湖南革命の機運が高まった[3]。しかし禹之謨が逮捕されると劉復基は常徳を逃れ、蔣翊武と連絡を取りながら人員を集めに奔走し、頭角を現すようになった。一時は常徳祗園寺中国語版を設立して湘西革命を起こそうとしたものの、当局の役人廖世英に察知されてしまい、劉復基は蔣翊武と共に上海に逃れた。その後中国同盟会の会員である楊卓霖の「競業旬報」の運営を補助し、中国同盟会に蔣翊武を紹介した[4]

1907年、両江総督端方の刺殺を試みたとして楊卓霖が逮捕され、「競業旬報」は出版停止となった。 劉復基と蔣翊武はそれぞれ故郷に潜伏した。

1909年秋、劉復基の兄である劉星澂は、劉復基を蔣翊武漢口で活動する「商務報」へ誘い、劉復基は会計と編集長を務めた。 彼と蔣翊武と詹大悲中国語版は新聞と定期刊行物を拠点として仲間を集め[5] 、地元の革命団体である群志学社との関係を確立した。

1910年、立憲派の楊度を処罰しようとしたため、劉復基もイギリス警官に8時間拘束され、「商務報」も活動停止を余儀なくされた[6]。群志学社の社員はほとんど新軍兵士であったため、劉復基も新軍に入隊、第二十一混合協四十一標に配属される傍らで、革命工作を行った。

だがこの判断は当局に群志学社の存在を気付かせる事となり、9月18日、劉復基は群志学社を「振武学社」と改名、楊王鵬を社長に任命した。実態の活動としては、全て劉復基が取り仕切っていた。

やがて瑞澂が湖広総督となると、革命党員への警戒が厳重になったため、楊王鵬と李六如中国語版は辞任し、劉復基と蔣翊武は引き続き組織活動を率いた[7]

翌年1月、振武学社は文学社に再編され、劉復基が評議部長に任命された。

劉復基は文学社の仲間を募集し、宣伝活動を行うと同時に共進会との連携を推進し、名声を高めた。

9月、文学社と共進会は湖北革命軍総指揮部を組織。劉復基は総会において調停役となった[8]。彼は参院および湖北革命軍総司令部の3人の軍事準備官の長に任命され、武昌起義の行動計画を策定した[9]。決起は当初10月6日に予定されていたが、湖南省での資金調達が遅れ、実施できずにいた。

10月9日、孫武が爆弾の暴発事故を起こし、当局の注意を引く。劉復基は蔣翊武らと共に小朝街にある本部で緊急会議を開催。夜には決起を行うことを決定するが、その会議の最中に清軍による襲撃を受けてしまう。蔣翊武は逃亡に成功したが、劉復基は彭楚藩・楊宏勝と共に清軍に逮捕され、10日早朝に斬首刑に処された[10]

10月10日夜、金兆龍程定国の2名が上官である陶啓勝の就寝命令を巡ってトラブルとなった末に陶啓勝を銃殺する事件が起きる。それを好機と見た共進会代表熊秉坤決起し、武昌起義が勃発した。

評価

  • 「困難で先見の明[11]」「落ち着いた謀略」「革命党の頭脳[12]」「文学社の諸葛孔明[13]
  • 李六如:「劉復基は日本への留学生の中でも、知性を持った学生だった。彼が軍隊に参加して以来、軍隊内の革命運動はさらに盛り上がった[14]

記念

武昌には、3人の姓にちなんで名付けられた「彭劉楊路」がある。

1931年、彼らが処刑された湖広総督府東門跡の武昌造船所東大門に「三烈士亭」が設立された。

1991年の武昌80周年記念において、武昌区人民政府は記念行事を開催、武昌競馬場に三烈士の像を建立した。

映画

脚注

  1. ^ a b 郭世佑 (2010-03-01) (中国語). 《晩清政治革命新論》. 中国: 人民大学出版社. ISBN 9787300118086 
  2. ^ 張難先《湖北革命知之録》,商務印書館1946年版第262頁
  3. ^ 《湘江評論》第4号,“本会総記”,転引自湖南史学会編:《辛亥革命在湖南論文集》,湖南人民出版社1984年4月第1版,第371-372頁
  4. ^ 《文学社武昌首義紀実》,第11頁
  5. ^ 《辛亥武昌首義人物伝》下冊,第550頁
  6. ^ 《辛亥首義回憶録》第2輯,第135頁;《武昌起義档案資料選編》中巻,第316頁
  7. ^ 《辛亥首義回憶録》第3輯,第35-36頁
  8. ^ 《辛亥首義回憶録》第1輯,第77頁注1
  9. ^ 《辛亥首義回憶録》第2輯,湖北人民出版社1980年2月第2版,第139-142頁
  10. ^ 《辛亥武昌首義人物伝》下冊,553頁
  11. ^ 居正《辛亥札記》,《辛亥革命在湖北史料選輯》,第142頁
  12. ^ 胡祖舜:《六十談往》,武漢大学歴史系中国近代史教研室編:《辛亥革命在湖北史料選輯》,湖北人民出版社1981年9月第1版,第61、67頁
  13. ^ 湖北省政協編:《辛亥首義回憶録》第1輯,湖北人民出版社1979年12月第2版,第16頁
  14. ^ 全国政協文史委編:《辛亥革命回憶録》第1集,文史資料出版社1961年10月第1版,第308頁
  15. ^ 1981年4月26日 《聯合報》第9版

参考文献

  • 徐友春主編 (2007). 《民國人物大辭典》(增補版). 河北人民出版社. ISBN 9787202030141