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[[広東省]][[三水区|三水県]]出身。[[天地会]]に加入し反清活動を行っていた。[[1854年]]に蜂起して三水県城を包囲するが、攻略に失敗。その後[[陳開]]・[[李文茂]]らとともに[[広州市|広州]]を包囲するが、陥落させることはできなかった。陳金釭は再び三水を包囲するがまたも失敗に終わった。その後[[湖南省]]に入るが、[[湘軍]]に敗れて撤退。再び広東省北部で活動し、「南天大王」と称した。[[1857年]]、[[懐集県|懐集]]を占領し、「大洪国」を建国し、「南興王」を名乗った。[[1858年]]より懐集の周辺地域を次々と攻略し、大洪国の勢力は広東省・[[広西省]]にまたがり、兵力は10万人に達した。[[1859年]]、内紛がおこり、[[賀州市|賀県]]に本拠を移した。[[1860年]]、広西按察使[[蔣益澧|蔣益澧]]らの湘軍に敗北し、賀県から逃亡を余儀なくされた。しかし[[1861年]]、[[信宜市|信宜]]を攻略し、大洪国を再建した。大洪国は再び勢力を増したが、[[1863年]]に広東[[提督 (清朝)|提督]][[昆寿]]に信宜を包囲された。陳金釭は裏切りに遭って殺害され、大洪国は滅亡した。 |
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2020年9月15日 (火) 15:50時点における版
陳 金釭(ちん きんこう、Chen Jingang、? ‐ 1863年)は清末の大洪国の反乱の指導者。
広東省三水県出身。天地会に加入し反清活動を行っていた。1854年に蜂起して三水県城を包囲するが、攻略に失敗。その後陳開・李文茂らとともに広州を包囲するが、陥落させることはできなかった。陳金釭は再び三水を包囲するがまたも失敗に終わった。その後湖南省に入るが、湘軍に敗れて撤退。再び広東省北部で活動し、「南天大王」と称した。1857年、懐集を占領し、「大洪国」を建国し、「南興王」を名乗った。1858年より懐集の周辺地域を次々と攻略し、大洪国の勢力は広東省・広西省にまたがり、兵力は10万人に達した。1859年、内紛がおこり、賀県に本拠を移した。1860年、広西按察使蔣益澧らの湘軍に敗北し、賀県から逃亡を余儀なくされた。しかし1861年、信宜を攻略し、大洪国を再建した。大洪国は再び勢力を増したが、1863年に広東提督昆寿に信宜を包囲された。陳金釭は裏切りに遭って殺害され、大洪国は滅亡した。
参考文献
- 郭穀生・史式編『太平天国大辞典』中国社会科学出版社