コンテンツにスキップ

「鄧恩銘」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
改名に伴う書き換え
Cewbot (会話 | 投稿記録)
23行目: 23行目:
'''鄧 恩銘'''(とう おんめい、''Deng Enming''、[[1901年]][[1月5日]] - [[1931年]][[4月5日]])は[[中国共産党]]設立者の一人。別名'''恩明'''、[[字]]は'''仲堯'''。[[貴州省]][[茘波県|茘波]]出身の[[スイ族|スイ族(水族)]]の人物。
'''鄧 恩銘'''(とう おんめい、''Deng Enming''、[[1901年]][[1月5日]] - [[1931年]][[4月5日]])は[[中国共産党]]設立者の一人。別名'''恩明'''、[[字]]は'''仲堯'''。[[貴州省]][[茘波県|茘波]]出身の[[スイ族|スイ族(水族)]]の人物。


[[1921年]]、[[上海]]で開催された[[中国共産党第一次全国代表大会]]に[[王尽美]]とともに[[山東省|済南]]代表として出席。彼はこの大会に参加した唯一の[[中国の少数民族|少数民族]]代表だった。以降、中国共産党[[青島市|青島]]支部書記、[[山東省_(中華民国)|山東省]]執行委員会書記などを歴任。[[1928年]]12月、済南にて捕われ、1931年に[[韓復ク|韓復榘]]統治下の[[山東省_(中華民国)|山東省]]臨時軍法会審委員会で銃殺刑の判決が下された。
[[1921年]]、[[上海]]で開催された[[中国共産党第一次全国代表大会]]に[[王尽美]]とともに[[山東省|済南]]代表として出席。彼はこの大会に参加した唯一の[[中国の少数民族|少数民族]]代表だった。以降、中国共産党[[青島市|青島]]支部書記、[[山東省_(中華民国)|山東省]]執行委員会書記などを歴任。[[1928年]]12月、済南にて捕われ、1931年に[[韓復榘]]統治下の[[山東省_(中華民国)|山東省]]臨時軍法会審委員会で銃殺刑の判決が下された。


{{DEFAULTSORT:とう おんめい}}
{{DEFAULTSORT:とう おんめい}}

2020年9月15日 (火) 21:44時点における版

鄧恩銘
生年月日 1901年1月5日光緒26年11月15日)
出生地 清の旗 貴州省茘波
没年月日 1931年4月5日民国20年4月5日)
死没地 中華民国の旗 中華民国山東省
テンプレートを表示
鄧恩銘
各種表記
繁体字 鄧恩銘
簡体字 邓恩铭
拼音 Dèng Ēnmíng
和名表記: とう おんめい
発音転記: トン エンミン
テンプレートを表示

鄧 恩銘(とう おんめい、Deng Enming1901年1月5日 - 1931年4月5日)は中国共産党設立者の一人。別名恩明仲堯貴州省茘波出身のスイ族(水族)の人物。

1921年上海で開催された中国共産党第一次全国代表大会王尽美とともに済南代表として出席。彼はこの大会に参加した唯一の少数民族代表だった。以降、中国共産党青島支部書記、山東省執行委員会書記などを歴任。1928年12月、済南にて捕われ、1931年に韓復榘統治下の山東省臨時軍法会審委員会で銃殺刑の判決が下された。