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「ヘンリー・フィッツロイ (初代グラフトン公)」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
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ただしヘンリーには母の愛人{{仮リンク|ヘンリー・ジャーミン (初代ドーヴァー男爵)|label=ヘンリー・ジャーミン|en|Henry Jermyn, 1st Baron Dover}}の子ではないかという疑惑がある。チャールズ2世も当初それを疑って認知を渋ったが、バーバラが強く抗議したため、結局認知されたという経緯があった{{sfn|森護|1987|p=141-142}}。

2020年12月4日 (金) 05:06時点における版

ヘンリー・フィッツロイ
Henry FitzRoy
1st Duke of Grafton
初代グラフトン公
在位 1675年9月11日1690年10月9日

称号 初代グラフトン公爵、初代ユーストン伯爵、初代イプスウィッチ子爵、初代サドバリー男爵、ガーター勲章勲爵士(KG)
出生 1663年9月28日
死去 (1690-10-09) 1690年10月9日(27歳没)
配偶者 イザベラ・ベネット
子女 チャールズ
家名 フィッツロイ家
父親 チャールズ2世
母親 バーバラ・パーマー
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初代グラフトン公ヘンリー・フィッツロイ: Henry FitzRoy, 1st Duke of Grafton, KG, PC1663年9月28日 - 1690年10月9日)は、イングランドの貴族・軍人。

イングランド王チャールズ2世と愛人バーバラ・パーマーとの間に生まれた私生児1672年ユーストン伯爵1675年グラフトン公に叙された。グラフトン公爵フィッツロイ家の祖である。

経歴

1663年9月28日チャールズ2世とその愛人バーバラ・ヴィリアーズ(後の初代クリーヴランド女公爵バーバラ・パーマー。第2代グラディソン子爵英語版ウィリアム・ヴィリアーズの娘)の間の3人の非嫡出男子の次男として生まれる[1][2]。同母兄に初代サウサンプトン公爵・第2代クリーヴランド公爵チャールズ・フィッツロイ、同母弟に初代ノーサンバーランド公爵ジョージ・フィッツロイがある[3]

ただしヘンリーには母の愛人ヘンリー・ジャーミン英語版の子ではないかという疑惑がある。チャールズ2世も当初それを疑って認知を渋ったが、バーバラが強く抗議したため、結局認知されたという経緯があった[4]

1672年8月1日にチャールズ2世の側近の初代アーリントン伯ヘンリー・ベネットの1人娘イザベラと結婚した[2][1][5]

母バーバラは、ルイーズ・ケルアイユ(初代リッチモンド公爵チャールズ・レノックスの母)らチャールズ2世の他の愛人たちにライバル意識を燃やしており、自分の3人の息子に爵位を確保しようと必死に宮廷工作を行った[3]。その結果、ヘンリーには1672年8月16日に弟ジョージ(ノーサンバーランド公)への特別継承権を認めたイングランド貴族爵位ユーストン伯爵(Earl of Euston)、イプスウィッチ子爵(Viscount Ipswich)、サドバリー男爵(Baron Sudbury)が与えられた[1][5]。さらに1675年9月11日にはグラフトン公爵に叙せられた[1][5]

1680年ガーター勲章を受勲した[2]1681年から1688年にかけてと1688年から1689年にかけて第1近衛歩兵連隊連隊長(Colonel)を務めた[2]。また1682年から1683年にかけてトリニティ・ハウス長官(master of the Trinity House)を務めた[2]1682年カンバーランド公ルパートが死去すると代わって海軍副提督英語版に就任し、1689年まで務めた[2][1]

1685年4月23日のジェームズ2世の戴冠式で大司馬を務めた[2][5]。同年6月にはモンマスの反乱鎮圧に参加[2][5]。同年7月28日に岳父アーリントン伯が死去し、妻が第2代アーリントン女伯爵位と財産を継承した[6]。同年11月9日から貴族院議員となった[2]。また同年から1689年までサフォーク統監英語版を務めた[5]

ジョン・チャーチル(後のマールバラ公)と行動を共にするようになり、1688年名誉革命ではチャーチルと共にジェームズ2世の軍から脱走してウィリアム3世に寝返った。1690年にもチャーチルにしたがって南アイルランド遠征(ウィリアマイト戦争)に参加したが、コーク包囲戦英語版で重傷を負い、10月9日に戦死した[2][6]

イザベラとの間の1人息子チャールズ・フィッツロイがグラフトン公位を継承した。彼は後にイザベラからアーリントン伯位も継承している[7]

栄典

爵位

1672年8月16日に以下の爵位を新規に叙される[1][5]

  • サフォーク州における初代ユーストン伯爵 (1st Earl of Euston, in the County of Suffolk)
    勅許状によるイングランド貴族爵位。特別継承権規定で直系の他、弟ジョージに継承可能)
  • サフォーク州における初代イプスウィッチ子爵 (1st Viscount Ipswich, in the County of Suffolk)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位。特別継承権規定で直系の他、弟ジョージに継承可能)
  • サフォーク州におけるサドバリーの初代サドバリー男爵 (1st Baron Sudbury of Sudbury, in the County of Suffolk)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位。特別継承権規定で直系の他、弟ジョージに継承可能)

1675年9月11日に以下の爵位を新規に叙される[1][5]

  • ノーサンプトン州における初代グラフトン公爵 (1st Duke of Grafton, in the County of Northampton)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)

勲章

1680年ガーター騎士団(勲章)ナイト(KG)[2]

家族

1672年8月1日に初代アーリントン伯ヘンリー・ベネットの1人娘イザベラと結婚した。彼女は父から第2代アーリントン女伯爵位と財産を継承した。彼女との間に爵位を継承する一人息子チャールズ・フィッツロイを儲けた[7][2][1][5]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h Heraldic Media Limited. “Grafton, Duke of (E, 1675)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年2月5日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Stephen, Leslie, ed. (1889). "Fitzroy, Henry (1663-1690)" . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 19. London: Smith, Elder & Co.
  3. ^ a b 森護 1987, p. 139-140.
  4. ^ 森護 1987, p. 141-142.
  5. ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Henry Fitzroy, 1st Duke of Grafton” (英語). thepeerage.com. 2016年2月5日閲覧。
  6. ^ a b 森護 1987, p. 144.
  7. ^ a b 森護 1987, p. 144-145.

参考文献

公職
先代
カンバーランド公
イングランド海軍副提督英語版
1682年–1689年
次代
初代トリントン伯爵
名誉職
空席
(次の就任者
第10代ノーサンバランド伯)
大司馬
1685年
空席
(次の就任者
第2代オーモンド公)
先代
初代アーリントン伯
サフォーク統監英語版
1685年 – 1689年
次代
第3代コーンウォリス男爵
軍職
先代
ジョン・ラッセル英語版
第1近衛歩兵連隊
連隊長(Colonel)

1681年 – 1688年
次代
初代リッチフィールド伯英語版
先代
初代リッチフィールド伯英語版
第1近衛歩兵連隊
連隊長(Colonel)

1688年 – 1689年
次代
ヘンリー・シドニー
イングランドの爵位
爵位創設 初代グラフトン公爵
1675年 – 1690年
次代
チャールズ・フィッツロイ
初代ユーストン伯爵
1672年 – 1690年