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「エルサレム王国」の版間の差分

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元々、十字軍は利害が対立する諸侯の連合軍であり、現地に建てられた諸侯国もエデッサ伯領(ブローニュ伯など北フランス諸侯)、アンティオキア公国([[南イタリア]]の[[ノルマン人]]諸侯)、トリポリ伯領(トゥールーズ伯など南フランス諸侯)とそれを反映し、お互いに対立していた。さらに、現地生まれの諸侯は異教徒と融和し共存を目指し始めたのに対し、新来の十字軍や教会関係者はイスラム教徒との戦闘を要求したため、王国の方針は常に定まらなかった。エルサレム王国は近隣のムスリム都市[[ダマスクス]]と協力し、[[騎士修道会|聖地騎士団]]の活躍により何とか領土を維持していたが、1144年に[[セルジューク朝]]の武将[[ザンギー]]にエデッサ伯領を奪回され、これに対して派遣された[[第2回十字軍]]が成果を収めず撤退し、ダマスクスがザンギーの息子[[ヌールッディーン]]に支配されたため、状況はいっそう悪化した。
元々、十字軍は利害が対立する諸侯の連合軍であり、現地に建てられた諸侯国もエデッサ伯領(ブローニュ伯など北フランス諸侯)、アンティオキア公国([[南イタリア]]の[[ノルマン人]]諸侯)、トリポリ伯領(トゥールーズ伯など南フランス諸侯)とそれを反映し、お互いに対立していた。さらに、現地生まれの諸侯は異教徒と融和し共存を目指し始めたのに対し、新来の十字軍や教会関係者はイスラム教徒との戦闘を要求したため、王国の方針は常に定まらなかった。エルサレム王国は近隣のムスリム都市[[ダマスクス]]と協力し、[[騎士修道会|聖地騎士団]]の活躍により何とか領土を維持していたが、1144年に[[セルジューク朝]]の武将[[ザンギー]]にエデッサ伯領を奪回され、これに対して派遣された[[第2回十字軍]]が成果を収めず撤退し、ダマスクスがザンギーの息子[[ヌールッディーン]]に支配されたため、状況はいっそう悪化した。


その後、弱体化した[[エジプト]]の[[ファーティマ朝]]に対して攻勢をかけたが、[[ヌールッディーン]]の部将[[シール・クーフ]]に阻まれ、結局エジプトはシール・クーフの甥[[サラーフッディーン]]の支配下に入り、エルサレム王[[アモーリー1世 (エルサレム王)|アモーリー1世]]が没したため、王国はサラーフッディーンの強力な圧力を受けることになった。アモーリーの死後、跡を継いだ[[ボードゥアン4世]]は病気により跡継ぎが望めず、後継をめぐって新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いが顕著になった。
その後、弱体化した[[エジプト]]の[[ファーティマ朝]]に対して攻勢をかけたが、[[ヌールッディーン]]の部将[[シール・クーフ]]に阻まれ、結局エジプトはシール・クーフの甥[[サラーフッディーン]]の支配下に入り、エルサレム王[[アモーリー1世 (エルサレム王)|アモーリー1世]]が没したため、王国はサラーフッディーンの強力な圧力を受けることになった。アモーリーの死後、跡を継いだ[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]は病気により跡継ぎが望めず、後継をめぐって新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いが顕著になった。


1187年ヌールッディーンの遺志を継いだ[[ムスリム]]勢力の英雄[[サラーフッディーン]]が[[ヒッティーンの戦い]]でエルサレム王[[ギー・ド・リュジニャン]]を破り、聖地エルサレムを奪回した。エルサレム王国はパレスチナの海岸部に追い詰められ、[[第3回十字軍]]が駆けつけてきたが、聖地再占領はできなかった。その後、[[第6回十字軍]]では[[シチリア王国]]に育ち[[アラビア語]]に堪能な異色の[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が外交交渉によってエルサレムを回復したが、1244年にはそれも失われた。
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1174年に[[ヌールッディーン]]と[[アモーリー (エルサレム王)|アモーリー]]が没した。ヌールッデーンの死去により、[[サラーフッディーン]]の勢力はシリアにも及び、中東のムスリム勢力はほぼ統一されることになり、キリスト教勢力への攻勢が強まった。
1174年に[[ヌールッディーン]]と[[アモーリー (エルサレム王)|アモーリー]]が没した。ヌールッデーンの死去により、[[サラーフッディーン]]の勢力はシリアにも及び、中東のムスリム勢力はほぼ統一されることになり、キリスト教勢力への攻勢が強まった。


一方、アモーリーの死によってエルサレム王国は混乱の時代に入っていった。跡を継いだ[[ボードゥアン4世]]は[[らい病]]が進んでおり、身動きが不自由で余命は短く、子供も望めなかった。アモーリーには他に息子はおらず、王位継承権を持つ者として[[シビーユ (エルサレム女王)|シビーユ]]、[[イザベル1世 (エルサレム女王)|イザベル]]の2人の娘の他、血縁の男子としてトリポリ伯[[レーモン3世 (トリポリ伯)|レーモン3世]]がいた。
一方、アモーリーの死によってエルサレム王国は混乱の時代に入っていった。跡を継いだ[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]は[[らい病]]が進んでおり、身動きが不自由で余命は短く、子供も望めなかった。アモーリーには他に息子はおらず、王位継承権を持つ者として[[シビーユ (エルサレム女王)|シビーユ]]、[[イザベル1世 (エルサレム女王)|イザベル]]の2人の娘の他、血縁の男子としてトリポリ伯[[レーモン3世 (トリポリ伯)|レーモン3世]]がいた。


従来から王国には、新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いがあったが、これに後継争いが加わり、抗争はいっそう激化していった。
従来から王国には、新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いがあったが、これに後継争いが加わり、抗争はいっそう激化していった。

2020年12月5日 (土) 02:25時点における版

エルサレム王国
Regnum Hierosolimitanum(ラテン語)
Roiaume de Jherusalem(古フランス語)
Regno di Gerusalemme(イタリア語)
Βασίλειον τῶν Ἱεροσολύμων(ギリシャ語)
ファーティマ朝
セルジューク朝
1099年 - 1291年 アイユーブ朝
マムルーク朝
エルサレム王国の国旗 エルサレム王国の国章
(国旗) (国章)
エルサレム王国の位置
1135年頃の近東。エルサレム王国は灰色
言語 ラテン語古フランス語イタリア語アラビア語ギリシャ語
首都 エルサレム (1099–1187)
ティール (1187–1191)
アッコ (1191–1229)
エルサレム (1229–1244)
アッコ (1244–1291)
国王
1099年 - 1100年 ゴドフロワ・ド・ブイヨン
(国王ではなく聖墓守護者として)
1100年 - 1118年ボードゥアン1世
1285年 - 1291年アンリ2世
変遷
建国 1099年7月15日
滅亡1291年5月18日

エルサレム王国(エルサレムおうこく、1099年 - 1291年)は、11世紀末西欧の十字軍によって中東パレスチナに樹立されたキリスト教王国。十字軍国家の一つ。

概要

ローマ教皇の呼びかけに応えて聖地エルサレムへ向かった第1回十字軍は、1099年エルサレムを占領し、十字軍の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ」(聖墓の守護者)に任ぜられた。これはゴドフロワが、キリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからである。ゴドフロワはエルサレムを拠点に残存するムスリム勢力の駆逐や農村の襲撃を行ったが、1100年にエルサレムで没した。弟のエデッサ伯ボードゥアン(ボードゥアン1世)が後を継いで「エルサレム王」を名乗った。こうして十字軍国家「エルサレム王国」が誕生する。

エルサレム王国ほか十字軍国家の版図(薄黄は1160年頃のエルサレム王国の版図、濃黄は1229年のエルサレム王国の版図)

エルサレム王は当初は十字軍によって征服されたエデッサ伯領アンティオキア公国トリポリ伯領といった十字軍国家に対する宗主権も有していた。イタリアの都市国家であるヴェネツィアジェノヴァピサヨーロッパとの海上交通や兵站路を確保するとともにレバント貿易に従事した。

元々、十字軍は利害が対立する諸侯の連合軍であり、現地に建てられた諸侯国もエデッサ伯領(ブローニュ伯など北フランス諸侯)、アンティオキア公国(南イタリアノルマン人諸侯)、トリポリ伯領(トゥールーズ伯など南フランス諸侯)とそれを反映し、お互いに対立していた。さらに、現地生まれの諸侯は異教徒と融和し共存を目指し始めたのに対し、新来の十字軍や教会関係者はイスラム教徒との戦闘を要求したため、王国の方針は常に定まらなかった。エルサレム王国は近隣のムスリム都市ダマスクスと協力し、聖地騎士団の活躍により何とか領土を維持していたが、1144年にセルジューク朝の武将ザンギーにエデッサ伯領を奪回され、これに対して派遣された第2回十字軍が成果を収めず撤退し、ダマスクスがザンギーの息子ヌールッディーンに支配されたため、状況はいっそう悪化した。

その後、弱体化したエジプトファーティマ朝に対して攻勢をかけたが、ヌールッディーンの部将シール・クーフに阻まれ、結局エジプトはシール・クーフの甥サラーフッディーンの支配下に入り、エルサレム王アモーリー1世が没したため、王国はサラーフッディーンの強力な圧力を受けることになった。アモーリーの死後、跡を継いだボードゥアン4世は病気により跡継ぎが望めず、後継をめぐって新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いが顕著になった。

1187年ヌールッディーンの遺志を継いだムスリム勢力の英雄サラーフッディーンヒッティーンの戦いでエルサレム王ギー・ド・リュジニャンを破り、聖地エルサレムを奪回した。エルサレム王国はパレスチナの海岸部に追い詰められ、第3回十字軍が駆けつけてきたが、聖地再占領はできなかった。その後、第6回十字軍ではシチリア王国に育ちアラビア語に堪能な異色の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が外交交渉によってエルサレムを回復したが、1244年にはそれも失われた。

その後もパレスチナの十字軍国家は、エジプトアイユーブ朝アッコン港周辺に追い詰められながら、エルサレム王国の名で存在し続けたが、1291年にエジプトのマムルーク朝によってアッコンを落され、完全に滅亡した。

詳細

エルサレムの陥落

1174年にヌールッディーンアモーリーが没した。ヌールッデーンの死去により、サラーフッディーンの勢力はシリアにも及び、中東のムスリム勢力はほぼ統一されることになり、キリスト教勢力への攻勢が強まった。

一方、アモーリーの死によってエルサレム王国は混乱の時代に入っていった。跡を継いだボードゥアン4世らい病が進んでおり、身動きが不自由で余命は短く、子供も望めなかった。アモーリーには他に息子はおらず、王位継承権を持つ者としてシビーユイザベルの2人の娘の他、血縁の男子としてトリポリ伯レーモン3世がいた。

従来から王国には、新来十字軍を中心とする宮廷派と現地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いがあったが、これに後継争いが加わり、抗争はいっそう激化していった。

宮廷派の中心は王母アニェスであり、後継候補として実子シビーユを立て、これに新来十字軍士のエメリー、ギー・ド・リュジニャンのリュジニャン兄弟、トランスヨルダン領主ルノー・ド・シャティヨン、旧エデッサ伯ジョスラン3世(アニェスの弟)が加わっている。一方、貴族派はトリポリ伯レーモンを中心として、後継候補としてイザベルを立て、これに前王妃マリア・コムネナ(イザベルの実母)、ボードゥアン、バリアンのイブラン一族が加わっていた。

1176年からボードゥアン4世は親政を始め、ジョスラン3世とトリポリ伯レーモンのバランスを取りながら国政を運営し、シビーユにモンフェラート侯ギヨームを結婚させ後継者としたが、間もなくギヨームが妊娠したシビーユを残して没し(生まれた子供が後のボードゥアン5世)、後継争いは再び混沌としてきた。

1177年のモントジザールの戦いでサラーフッディーンを破り、しばらく平穏が続くが、派閥争いは一層激しくなった。貴族派は、シビーユとボードゥアン・ディブランの結婚を狙ったが、アニェスら宮廷派はシビーユをギー・ド・リュジニャンと結婚させてギーを摂政に任命し、さらにイザベルをルノー・ド・シャティヨンの継子であるトロン領主オンフロワ4世と結婚させて、貴族派からの切り離しを狙った。ギヨーム・ド・ティールの年代記ではアニェスの影響力によるものとしているが、現在の研究では王位継承権を持つレーモンや勢力拡大を狙うイブラン一族を警戒したボードゥアン4世の意向であると考えられている。

1183年にルノー・ド・シャティヨンの挑発に怒ったサラーフッディーンが、ルノー・ド・シャティヨンの居城ケラク城で行われていたイザベルの結婚式を襲うと、ボードゥアン4世は病床にも拘わらず輿に乗って出陣したが、この時ギーの能力に不満を持ち、シビーユ夫妻の継承権を奪って5歳のボードゥアン5世を共同王にするとともに、ギーを摂政から解任し、代わりにレーモンを摂政とした。

1185年にボードゥアン4世が没するとボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱のため即位後1年で早世し、再び後継争いが再燃した。貴族派を中心に諸侯は、シビーユの即位の条件としてギーとの離婚を要求するが、シビーユはいったんこれに同意するものの、即位すると同時にギーを国王に戴冠した。これに対し、トリポリ伯レーモン、ボードゥアン・ディブランなどの貴族派はイザベルを擁立してクーデターを企てたが、イザベルの夫オンフロワが寝返って失敗に終わった。

反対派を排除して権力を握ったギーは、対イスラム強硬派のルノー・ド・シャティヨンと組み、サラーフッディーンとの対決姿勢を強めた。1186年、休戦条約を犯してルノーはメッカへの巡礼者やキャラバンを虐殺し、残りを捕虜に取った。サラーフッディーンの捕虜解放交渉はギーとルノーに無視され、ここに休戦は破れた。トリポリ伯レーモンはサラーフッディーンの圧力もありイスラム勢力との融和を計っていたが、ギーたちはレーモンに対してサラーフッディーンとの同盟を結んだことを責め、大司教による破門もちらつかせた。レーモンは屈してギーと妥協し、1187年7月4日のヒッティーンの戦いでサラーフッディーンと激突したが、十字軍は大敗し、ギー、ルノー、テンプル騎士団総長ら多くが捕虜となった。

サラーフッディーンはモンフェラート侯コンラードが守るティールを除くアッコン、ナビュラス、ヤッファ、トロン、シドンベイルート、アスカロン等を次々と落し、エルサレムに迫った。エルサレムにはバリアン・ディブラン英語版フランス語版の他、わずかな騎士しかいなかったが、「聖地を異教徒に渡すより全滅した方がましだ」「必ず、神の助けがある」といった強硬論が主流を占め、サラーフッディーンの降伏勧告に従わず、住民に武装させ抵抗を行った英語版。しかし衆寡敵せず、間もなく降伏、1187年10月2日に開城したが、サラーフッディーンは寛大な条件を示し、身代金を払うことで市民の退去を許し、払えず奴隷になった者も多くを買い戻して解放した。

関連項目