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「ロベルト・コチャリャン」の版間の差分

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[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国]]内、[[ナゴルノ・カラバフ自治州]]の州都[[ステパナケルト]]の出身。ナゴルノ・カラバフについては強硬派としてアゼルバイジャンからの同自治州分離を一貫して主張してきた。同自治州が「[[アルツァフ共和国]]」(ナゴルノ・カラバフ共和国とも呼ばれた)として独立宣言したのちの[[1992年]]に「アルツァフ共和国」の首相兼防衛委員に就任した。また、[[1994年]]12月29日には「アルツァフ共和国」大統領に指名された<ref name="1994-2007">{{lang|ru|{{cite news|title= Выборы президента Нагорного Карабаха, 1994-2007 гг.|url= http://www.kavkaz-uzel.ru/articles/208596/|date= 2012-06-22|accessdate= 2016-01-29|publisher= {{仮リンク|カフカスキー・ウゼル|label= Кавказский Узел|ru|Кавказский Узел}}}}}}</ref>。[[1996年]]11月の第1回大統領選挙でも無所属ながら88.91パーセントの得票率で勝利し、その後[[アルメニアの首相]]に就任するため[[1997年]]3月20日に辞任するまで、「アルツァフ共和国」大統領の地位にあった<ref name="1994-2007"/>。アルメニアの首相を務めた後は、[[1998年]]から[[2008年]]まで大統領を務めた。大統領在任中の1999年に発生した[[アルメニア議会銃撃事件|議会銃撃事件]]についての関与が囁かれている<ref>{{Cite journal|和書|author = [[吉村貴之]]|date = 2002-04|title = アルメニア / 『第二共和国』の政治 - 安定か停滞か|journal = アジ研ワールド・トレンド|volume = 8|issue = 第4号(通巻第79号)|page = 30|publisher = [[アジア経済研究所]]広報部|issn = 13413406|naid = 40005089033}}</ref>。
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[[ソ連崩壊]]までは[[アルメニア共産党|共産党]]の職員であったが、以後はどの政党にも属していない。コチャリャンの下、アルメニアは比較的安定・成長し、[[レヴォン・テル=ペトロシャン]]の元で起きた多くの移民の発生を減らすことに成功した。
[[ソビエト邦の崩壊]]までは[[アルメニア共産党|共産党]]の職員であったが、以後はどの政党にも属していない。コチャリャンの下、アルメニアは比較的安定・成長し、[[レヴォン・テル=ペトロシャン]]の元で起きた多くの移民の発生を減らすことに成功した。


コチャリャンの[[2003年]]の再選は、選挙違反の申し立てにより傷つけられたが、多くの専門家は選挙違反がこの選挙結果をくつがえすほどのものではないと主張している。2004年の始めの頃、コチャリャンの辞任要求が散発的に起こり、彼の信任を問う国民投票を要求するデモが彼に反対する陣営の指導の下で行われた。
コチャリャンの[[2003年]]の再選は、選挙違反の申し立てにより傷つけられたが、多くの専門家は選挙違反がこの選挙結果をくつがえすほどのものではないと主張している。2004年の始めの頃、コチャリャンの辞任要求が散発的に起こり、彼の信任を問う国民投票を要求するデモが彼に反対する陣営の指導の下で行われた。

2020年12月25日 (金) 23:22時点における版

ロベルト・コチャリャン
Ռոբերտ Քոչարյան

2001年のコチャリャン

任期 1998年2月4日2008年4月9日

アルメニアの旗 アルメニア共和国
第6代 首相
任期 1997年3月20日1998年4月10日

任期 1994年12月29日1997年3月20日

任期 1992年8月15日1994年12月24日

出生 (1954-08-31) 1954年8月31日(70歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国ナゴルノ・カラバフ自治州ステパナケルト
配偶者 ベラ (en)

ロベルト・コチャリャンアルメニア語: Ռոբերտ Քոչարյան1954年8月31日 - )は、アルメニア政治家で第2代大統領1998年 - 2008年)。

アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国内、ナゴルノ・カラバフ自治州の州都ステパナケルトの出身。ナゴルノ・カラバフについては強硬派としてアゼルバイジャンからの同自治州分離を一貫して主張してきた。同自治州が「アルツァフ共和国」(ナゴルノ・カラバフ共和国とも呼ばれた)として独立宣言したのちの1992年に「アルツァフ共和国」の首相兼防衛委員に就任した。また、1994年12月29日には「アルツァフ共和国」大統領に指名された[1]1996年11月の第1回大統領選挙でも無所属ながら88.91パーセントの得票率で勝利し、その後アルメニアの首相に就任するため1997年3月20日に辞任するまで、「アルツァフ共和国」大統領の地位にあった[1]。アルメニアの首相を務めた後は、1998年から2008年まで大統領を務めた。大統領在任中の1999年に発生した議会銃撃事件についての関与が囁かれている[2]

ソビエト連邦の崩壊までは共産党の職員であったが、以後はどの政党にも属していない。コチャリャンの下、アルメニアは比較的安定・成長し、レヴォン・テル=ペトロシャンの元で起きた多くの移民の発生を減らすことに成功した。

コチャリャンの2003年の再選は、選挙違反の申し立てにより傷つけられたが、多くの専門家は選挙違反がこの選挙結果をくつがえすほどのものではないと主張している。2004年の始めの頃、コチャリャンの辞任要求が散発的に起こり、彼の信任を問う国民投票を要求するデモが彼に反対する陣営の指導の下で行われた。

後継を決める2008年2月の大統領選挙では盟友のセルジ・サルキシャンが当選。しかしこの結果に反発する野党勢力が3月に首都エレバンにてデモを起こし、治安当局との衝突が発生。10人が死亡、約200人が負傷した。この時のデモ隊の中心メンバーだったニコル・パシニャンが2018年5月に首相に就任し、7月27日、アルメニア司法当局はこの野党デモ排除は憲法体制の転覆の罪に相当するとして当時の大統領であったコチャリャンを逮捕した[3]

妻ベラの間には3人の子供がいる。

脚注

  1. ^ a b “Выборы президента Нагорного Карабаха, 1994-2007 гг.”. Кавказский Узелロシア語版. (2012年6月22日). http://www.kavkaz-uzel.ru/articles/208596/ 2016年1月29日閲覧。 
  2. ^ 吉村貴之「アルメニア / 『第二共和国』の政治 - 安定か停滞か」『アジ研ワールド・トレンド』第8巻第4号(通巻第79号)、アジア経済研究所広報部、2002年4月、30頁、ISSN 13413406NAID 40005089033 
  3. ^ “アルメニア元大統領を逮捕 2008年の野党デモ排除で”. 共同通信社. (2018年7月28日). https://this.kiji.is/395771221193475169?c=110564226228225532 2018年8月5日閲覧。 
公職
先代
レヴォン・テル=ペトロシャン
アルメニアの旗 アルメニア共和国大統領
第2代:1998年 - 2008年
次代
セルジ・サルキシャン
先代
アルメン・サルキシャン
アルメニアの旗 アルメニア共和国首相
第6代:1997年 - 1998年
次代
アルメン・ダルビニアン英語版
先代
カレン・バブリャンイタリア語版
(国民会議議長代行)
アルツァフ共和国の旗 アルツァフ共和国大統領
初代:1994年 - 1997年
次代
レオナルド・ペトロシャン英語版
(代行)
先代
オレス・イェサヤン英語版
アルツァフ共和国の旗 アルツァフ共和国首相
第2代:1992年 - 1994年
次代
レオナルド・ペトロシャン英語版