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== 市内 ==
== 市内 ==
[[ソ連崩壊]]に伴い独立したモルドバ中央政府と対峙している沿ドニエストル共和国の首都であるため、市内には[[ソ連]]時代を称揚する記念碑や銅像がそのまま残っている。政府ビル前には[[レーニン]]像が建つほか、「[[大祖国戦争]]」でソ連を対独勝利に導いた[[T-34]]戦車が広場の記念碑として飾られている。また[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]]や、モルドバと沿ドニエストルとの[[1992年]]の衝突([[トランスニストリア戦争]])の記念碑が建っている。その結果、[[在モルドバ共和国沿ドニエストル地域ロシア軍作戦集団|ロシア連邦軍]]が駐留するようになった<ref>on the scene 現場を旅する(66)ティラスポリ、観光の目玉「ほらふきの要塞」『[[朝日新聞グローブ]]』No.137(2014年)</ref>。
[[ソビエト邦の崩壊]]に伴い独立したモルドバ中央政府と対峙している沿ドニエストル共和国の首都であるため、市内には[[ソ連]]時代を称揚する記念碑や銅像がそのまま残っている。政府ビル前には[[レーニン]]像が建つほか、「[[大祖国戦争]]」でソ連を対独勝利に導いた[[T-34]]戦車が広場の記念碑として飾られている。また[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン侵攻]]や、モルドバと沿ドニエストルとの[[1992年]]の衝突([[トランスニストリア戦争]])の記念碑が建っている。その結果、[[在モルドバ共和国沿ドニエストル地域ロシア軍作戦集団|ロシア連邦軍]]が駐留するようになった<ref>on the scene 現場を旅する(66)ティラスポリ、観光の目玉「ほらふきの要塞」『[[朝日新聞グローブ]]』No.137(2014年)</ref>。


家具や電機など[[軽工業]]の工場が立地する。
家具や電機など[[軽工業]]の工場が立地する。

2020年12月25日 (金) 23:46時点における版

ティラスポリ

Tiraspol
Тирасполь
基礎自治体
ティラスポリの旗
ティラスポリの紋章
紋章
沿ドニエストル共和国での位置
沿ドニエストル共和国での位置
ティラスポリの位置(モルドバ内)
ティラスポリ
沿ドニエストル共和国での位置
北緯46度50分25秒 東経29度38分36秒 / 北緯46.84028度 東経29.64333度 / 46.84028; 29.64333
モルドバの旗 モルドバ(国際的、名目上)
沿ドニエストル共和国の旗 沿ドニエストル共和国(事実上)
建設 1792年
市に昇格 1795年
政府
 • 市長 Bezbabchenko Andrey Ivanovich
面積
 • 合計 55.56 km2
標高
26 m
人口
2014年
 • 合計 133,807人
 • 密度 2,400人/km2
郵便番号
MD-3300
市外局番 +373 533 xxxxx
ナンバープレート T --- --
ウェブサイト http://tirasadmin.org/
ティラスポリのトロリーバスと市街風景

ティラスポリ(ティラスポール)ルーマニア語(モルドバ語)Tiraspolロシア語ウクライナ語: Тирáсполь)は、モルドバ共和国の東部に位置する都市。モルドバ共和国の首都であるキシナウに次ぐ第三の都市である。(第二はバルツィ。)ドニエストル川東岸の河畔に位置し、モルドバ共和国から事実上分離し独立を主張している沿ドニエストル共和国の首都でもある。

市内

ソビエト連邦の崩壊に伴い独立したモルドバ中央政府と対峙している沿ドニエストル共和国の首都であるため、市内にはソ連時代を称揚する記念碑や銅像がそのまま残っている。政府ビル前にはレーニン像が建つほか、「大祖国戦争」でソ連を対独勝利に導いたT-34戦車が広場の記念碑として飾られている。またアフガニスタン侵攻や、モルドバと沿ドニエストルとの1992年の衝突(トランスニストリア戦争)の記念碑が建っている。その結果、ロシア連邦軍が駐留するようになった[1]

家具や電機など軽工業の工場が立地する。

歴史

ティラスポリは1792年に、第二次露土戦争を戦ったロシア帝国の軍人アレクサンドル・スヴォーロフによって建設された。かつてこの地には古代ギリシアポリスミレトスが紀元前600年頃に作った植民地ティラス(Tyras)があった。中世にはモルドバ人の都市 スクレヤ・ヴェケ(Sucleia Veche)があったが、1787年オスマン帝国軍に放火された。この町の跡地の近くに、オスマン帝国との国境を守る砦としてティラスポリが築かれた。ティラスポリの名は、ドニエストル川を指す古代ギリシア語のティラス(Tiras)と、都市を表すポリス(polis)を合わせたものである。

1812年までにドニエストル川の対岸にあたるモルダビア公国の東半分(ベッサラビア)もロシア帝国領となり、ティラスポリ周辺にはロシア人ウクライナ人が入植した。第一次世界大戦後にはベッサラビアはルーマニア領となったが、ドニエストル川東岸はソビエト連邦ウクライナ社会主義ソビエト共和国モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国となり、ルーマニア人が多数を占める地域となっていた。ティラスポリは1929年から1940年まで共和国の首都となった。

1940年、独ソ不可侵条約秘密議定書によりベッサラビアはルーマニアからソ連に割譲されてモルダビア・ソビエト社会主義共和国が設立され、ティラスポリ周辺もその一部に編入された。独ソ戦に伴い、ティラスポリにもナチス・ドイツ軍とその同盟国であるルーマニア軍が侵入し、一時的にルーマニア領となった。

1990年以後、ティラスポリはベンデルとともに沿ドニエストル共和国として独立を宣言し、以後その事実上の首都となっている。

人口構成

1989年の段階で市の人口は19万人、うち41%がロシア人で32%がウクライナ人、18%がモルドバ人だった。その後の沿ドニエストルの分離独立宣言と武力衝突によりモルドバ人が流出したほか、ユダヤ人も海外へ移民し、人口は減少した。2004年の国勢調査では人口は158,069人となっている。

19世紀末にはユダヤ人人口が増加し、1897年には8,668人と人口の27%を占めた。第二次世界大戦前も30%近くはユダヤ人であったが、ナチス・ドイツの侵攻によりユダヤ人は激減した。その後、戦後には1万人ほどに回復したとみられているが、1990年以後の海外流出により2007年のユダヤ人人口は2,200人となっている。市内ではシナゴーグやユダヤ人墓地への攻撃など、ユダヤ人に対する迫害が起きた。

気候

ティラスポリの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 0.7
(33.3)
2.3
(36.1)
7.8
(46)
16.5
(61.7)
22.5
(72.5)
25.8
(78.4)
27.4
(81.3)
27.3
(81.1)
23.0
(73.4)
16.1
(61)
8.6
(47.5)
3.3
(37.9)
15.1
(59.2)
平均最低気温 °C°F −6.1
(21)
−4.3
(24.3)
−0.7
(30.7)
5.1
(41.2)
10.3
(50.5)
13.8
(56.8)
15.5
(59.9)
14.7
(58.5)
10.3
(50.5)
5.3
(41.5)
1.3
(34.3)
−2.8
(27)
5.2
(41.4)
降水量 mm (inch) 33
(1.3)
35
(1.38)
28
(1.1)
35
(1.38)
52
(2.05)
72
(2.83)
63
(2.48)
49
(1.93)
38
(1.5)
26
(1.02)
36
(1.42)
38
(1.5)
495
(19.49)
平均降水日数 11 11 9 10 11 11 10 7 7 7 11 11 116
出典:World Weather Information Service 2008-01-06

交通

航空
鉄道

姉妹都市

脚注・出典

  1. ^ on the scene 現場を旅する(66)ティラスポリ、観光の目玉「ほらふきの要塞」『朝日新聞グローブ』No.137(2014年)

関連項目