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ジェンダーフリー(gender-free)とは、文化的・社会的文脈における「男」「女」の性のイメージや役割であるジェンダーにとらわれず、個々人それぞれが自分らしく個人としての資質に基づいて果たすべき役割を自己決定出来るようにしようという、「ジェンダーからの自由を目指す」思想、および、この思想に基づいた運動を指す。
ジェンダーフリー概念の成立
上記の意味での「ジェンダーフリー」という和製英語は、日本国内でのみ用いられている。日本で行われているジェンダーフリー運動の考え方は、英語圏でいう「ジェンダー・イクォリティ」運動に近い。「gender-free」という言葉自体は、アメリカの教育学者バーバラ・ヒューストンが用いたとされているが、ヒューストンはこの言葉を「ジェンダーの存在を意識しない」という意味で使用しており、かつ、「ジェンダーフリーよりも、ジェンダーに起因する差別や格差に敏感な視点を常に持って教育を進めるべきだ」という批判的な文脈で使った言葉である。すなわち、日本において「ジェンダーからの自由を目指す」思想や運動に「ジェンダーフリー」という語が用いられたのは、本来の意味と異なる誤用であった。
- (なお、フェミニストの山口智美は、『「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源』の中で以下のように述べている。
『私は10年以上、アメリカの大学院でフェミニズムを専門としてきたが、「ジェンダー・フリー」という言葉は聞いたことがなかった。「ジェンダー・フリー」の「フリー」は、日本で一般に理解されているような「~からの自由」という意味より、英語では「~がない」という意味合いが強い。アルコールフリービール、オイルフリーファンデーションなどを例にとるとお分かりいただけるだろう。アメリカ人のフェミニスト学者数名に、「ジェンダー・フリー」について聞いてみたところ、「何それ?ジェンダー・ブラインドって意味なの?」という反応が返ってきた。彼女たちは、「ジェンダーを見ようとしない。ジェンダーが見えていない」という意味にとった。つまり、ジェンダー・フリーを、男女平等に対して否定的な意味合いを持つ用語と解釈したのである。』)[1]
「ジェンダーフリー」は、フェミニズム運動の一環として、あるいはその考え方を中心にした文脈で理論・運動が展開されることが多い。ただし、フェミニストのすべてがジェンダーフリー賛同派というわけではない。
男性に対する文化的圧力を問題とする「男性学」「メンズリブ」「マスキュリズム」などの活動を行う層にも、ジェンダーフリー運動に賛同する者は多い。また、クィアと呼ばれる、同性愛など性的マイノリティーに属する層の中にも運動に賛同する者がいるが、この層では、本来の「ジェンダーフリー」の意味から離れ、独自の政治的意味を付加する論も存在する。
関連リンク
- 「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源(山口智美:シカゴ大学東アジア研究センターポストドクトラル研究員)
ジェンダーフリー運動とそれをめぐる状況
ジェンダーフリーでは、「ジェンダー」とは文化的・社会的文脈における「男」「女」の性の役割やイメージに限定した意味で用いられている。
それから、ジェンダーフリーは主としてラディカル・フェミニズムの一環として、あるいはその考え方を中心にした文脈で理論、運動が展開されたため、この運動において用いられる「ジェンダー」の概念は、人文系の学問において一般的に用いられる中立的・客観的意味での「社会的文化的性別」とは異なっている。
ラディカル・フェミニズムでは、「ジェンダー」は、男性と女性を平等で相互補完的に位置づけているものではなく、「男が上で女は下」「男が支配し女が従う」といった、非対称の関係として機能している、と捉えている。「ジェンダー」は男女の支配従属の関係を維持するための装置であり、また、ジェンダーを根底から規定し、女性を差別的状況におく社会的仕組みの中心をなすのが、性別役割分業であるとしている。
すなわち、ジェンダーフリー運動における「ジェンダー」は、中立的な概念・用語ではなく、性別役割分業を階級構造であると見なし、また、これを解消すべきという意図が含まれている、政治的な概念・用語となっている。
また、この運動においては、「社会に男女の区別や性差の意識があるために役割分業も発生するから、男女を分ける制度をなくしてしまおう」という考え方のもとに、男女の差異そのものを否定・相対化してしまおうという論が主張されたり、その論にしたがった政策も進められている。
この政策では、制度面の改革と評価面の改革という二面性が存在する。
たとえば、学校教育運動であるジェンダーフリー教育としては、以下のような特徴が挙げられる。
制度面では、男女に分けない共通性として、科目の共通性(男子も家庭科を必修にする等)、衣服・教材の共通性(体操服を両性共通のデザインにする等)、呼称の共通性(両性とも「さん」付けに統一する等)、呼び順の共通性(男女混合名簿等)など、各制度における両性の共通化を推し進める。
また、評価面では、ジェンダーステレオタイプによるバイアスを解消し、生活指導面(泣く男子は叱るのに、泣く女子は叱らない等の区別はしない)、進路指導面(女子が理系に進むことに消極的になるような誘導はしない)、固定的な役割分担を定めない(常に男子が学級委員、女子が副学級委員等と固定化しない、運動部のマネージャーを女子のみに限定しない)など、「個々の個性」に基づいた評価・進路指導の方針を進める、などである。
また、学校教育方面以外にも、育児教育や職業選択などでジェンダーフリー運動が展開されている。
これに対して批判側からは、性別は生物学的要素を多分に含むものであるから体格、出身、門地、民族その他の要素と同一に取り扱えない、差別ではない性差による区別は否定されるべきでない、といった批判がなされている。
英語圏では、「社会的文化的性からの解放」を目指すものとして、「ジェンダー・イクォリティ」運動が、日本の「ジェンダーフリー」運動に近いものとして存在している。ただし、日本以外では、「あらゆる場面において男女の区別を解体すると、女性を対象にして保護や優遇措置を求めるフェミニズム運動にとって不利である」ことが早くから指摘されており、これを踏まえ、男女の区別を画一的に解体せずに、ジェンダー・イクォリティ」運動を進めるべきであるというフェミニストも見られる。
日本政府の内閣府男女共同参画局はジェンダーフリーについて『一部に、画一的に男女の違いを無くし人間の中性化を目指すという意味で「ジェンダー・フリー」という用語を使用している人がいますが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではありません』と説明している(内閣府・男女共同参画関連用語集より引用)。この意味での「ジェンダーフリー」という用語は、アメリカでも、日本政府でも、国連でも、公式に使われていない。なお、「(生物学的な意味での)男女を区別せず処遇する」と言う意味でのgender-freeは、英米軍の公式用語として使用されているし、「(生物学的な)ジェンダー(性)にかかわらない(語彙など)」という意味では使われているので「英語にない完全な和製英語」という言い方も正しくない。2003年2月27日の予算委員会第一分科会における官房長官の答弁として、「ジェンダーフリーという言葉はいかなる場合でも使ってはいけないということではない」「誤解を招くような、そういうおそれがあるので政府として公式に使っていない」「使用する際に、例えば地方公共団体とか関係機関において用語を適切に定義して、それが誤解なく理解されるようにする、これが大事だ」との見解を示しているが(国会議事録検索システムより引用)、その後、男女共同参画局メーリングリストで「定義を示して使用するのは差し支えない」と局長が見解を示すなど、行政も混乱している。この様に政府や自治体は一部の過激な論調を抑えるようにはしているが、福井県の男女共同参画関連施設において、政府の男女共同参画方針に相応しくない書籍を閲覧室から書庫に移した際、フェミニストから言論弾圧との苦情が殺到した事例もあり、政府や自治体が思うように男女共同参画政策を動かせない実態もある。
東京都では、男女の違いを否定するという意味でのジェンダーフリーが、都教育委員会の男女平等の見解と異なることから、ジェンダーフリーという言葉を用いないように文書で通達している。また、国分寺市の講演にフェミニストである上野千鶴子を招くことを見送った事例がある。
関連リンク
- 東京都に抗議する!(上野千鶴子 国分寺問題)
- 「ジェンダー・フリー」への攻撃 なぜ?(日本共産党 しんぶん赤旗)
ジェンダーフリーをめぐる論争
ジェンダーフリー運動については、賛同派と反対派の間でさまざまな論争が行われている。
ジェンダーフリーの考え方のひとつにある「性差別が起こるのは社会的・文化的性(日本語の上での「ジェンダー」)があるからである」と捉える考え方はフェミニズム運動と重なる部分が大きい。賛同派の一部には、性差・差異そのものを否定・相対化する過激な論者(主として、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなどの論者)もおり、この考え方にもとづき、性の区別の意識をなくそうという方向の教育も実際に行われている。
例えば、古くからいつまでも泣いている男の子を「男らしくない」とか、「~かしら」「~なの」「~わ」などの女性語を用いる男性を疎んじる風潮が一般的な傍ら、「俺」「僕」「お前」「食う」「うまい」「メシ(飯)」などの男性語を用いたり、大股を広げて歩く、腕あぐらをかく、長ズボンばかり穿いているといった女子の立ち居振る舞いを「女らしくない」という考えもある。
しかし、社会的・文化的な性とされる「ジェンダー」は、その社会の文化に強く結びついているため、それを全て画一的に排しようとするのは困難である。また、推進側でも思想的方向性が統一されているわけではなく、上記のような理論には問題があるとの指摘をする者もいる。すなわち、「性差を考慮しなくなること、否定すること=ジェンダーレスでは、構造的、生物的性差が隠蔽され、それがセクハラなどと結びつく可能性がある」という主張である(すなわち現存の性差を全て社会的所産と規定する構築主義の考え方を純粋に突き詰めれば、例えば男女別に分けてある公衆トイレや公衆浴場の区分、空港などで男性の係官が女性の身体検査をしない規定でさえ性差別であるとする議論も可能となる。)。このような指摘をした推進側の論者は、ジェンダーフリーとは、画一的に生物学的な男女の性差までも否定しようとする考えではなく、男女の性差を個々の個体差(肯定的な「男らしさ・女らしさ」、否定的な「男らしくなさ・女らしくなさ」「男臭さ・女臭さ」)などの評価ではなく、個性としての「自分らしさ」として評価することに還元する運動である、としている。
これに対して反対派は、果たして個性・自分らしさという評価が可能なのかという指摘や、性差否定を目指さなくても結果として男女の中性化を招くのではないかという指摘をしている。さらに、賛同派の中には性差・差異そのものを否定する過激な論者も存在する点を取り上げて、このような論者を含む運動は「家族および社会の崩壊につながりかねない」との批判も行っている。その例として、「香取慎吾の『おはロック』の歌詞がジェンダーフリーに反する」「『桃太郎』のストーリーをイデオロギーによって改変」「挿絵で母親がエプロンをしていることは問題」といった、「行きすぎ」ともいえる「過激な」(と反対派が考える)ジェンダーフリー教育が一部で行なわれていることを挙げている。
石原慎太郎東京都知事は、都議会定例会において、「最近、教育の現場をはじめさまざまな場面で、男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈している」「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張が見受けられる」「男と女は同等であっても、同質ではあり得ない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たないのは自明の理だ」と強調し、ジェンダーフリー教育を公人の立場で公式に批判した。
賛同派側はこれを「少数による一部の運動をジェンダーフリーそのものであるかのようにミスリードするもの」と反論した。
ジェンダーフリー運動が始まってから数年経ち、数多くの批判が行われるようになってきたが、これは、ジェンダーフリーの理論の直接的な問題点のみならず、賛同派側が硬直した態度、好戦的な態度をとることによって、自ら敵を作っているからではないかという指摘もある。特に地方公共団体主催で行われた過去のジェンダーフリー公聴会では、会場から出た批判的な声を全て「クレーム」「バックラッシュ」として聞くに値しないかのような対応をしたことが報道された。中にはクレーム対応係を設けていたケースまである。こういった強引とも思える手法が明るみに出るにつれ、ますます反対派を勢いづかせることになった。 また、フェミニストは拙速な差別是正を目指すあまり、安易な逆差別(男性差別)を肯定・推進し、反発を招いている。「男女」という表現を「女男」という表現にするなど、非本質的な部分に固執するあまり(「男女」が差別なら「女男」も差別と見なせるので矛盾しており、こうした矛盾がジェンダーフリーの理念に賛成している人まで敵にまわし始めているとの指摘もある)、必要以上に反感を買っている。 いくらフェミニストが「正しい」とする理念を掲げても、社会には多様な価値観、感情を持った人達がおり、それらの人達と折り合いをつけながら徐々に是正していくことが必要であるのに、フェミニストは怒りや憎しみという負の感情から逆差別に走りがちであり、上記のような言動をとることも多く、これに対する反発から、フェミニズムのあら捜しをする勢力の拡大につながっているとも考えられる。
産業界においては、男性のみ、あるいは女性のみが専有すると思われていた職業が両性に解放されたり、有能な女性が「機会の平等」によって社会進出(賃金労働者化)すること、必要に応じて男性が育児休暇をとるなどの点において、女性の人材活用などの面で新自由主義と一部で重なるためもあり、保守派もそれほど批判的ではない。だが「これまで、あるいは現在も不利な立場にある女性に対して、有利な環境や快適に過ごせる環境を整えることで、女性の社会進出を促進させる」という考え方にもとづき、各企業の入社試験・昇進や公務員試験等で女性を優先的に採用させようとするアファーマティブ・アクション、ポジティブ・アクションのような積極的施策を求める動きもあるが、こちらについては「結果平等である」「悪平等である」「男性差別である」といった保守派や男性からの反発が強い。同様に、アファーマティブアクションを義務づける法律が、かつてアメリカで制定されたが、米最高裁で違憲とされ、この法律は廃止された。
宗教においては、世界教授アカデミー、および世界日報という団体が伝統的性文化への回帰を広く呼びかけている。世界教授アカデミーおよび世界日報は統一教会との強固な関係を持つ。ジェンダーフリー賛同側は「批判側にカルトが係わっている」ことをアピールしている現状である。ジェンダーフリー批判派は、ジェンダーフリーを批判する一部にカルト宗教が係わっていることによって、問題はかえって複雑化している、と考えている。 なお、アメリカでは、パット・タンジェントをはじめとするテレバンジェリストと言われる保守派のテレビ宣教師達が、男女の役割分担を尊重し、子供は家庭で母親が育てるべきであると説いている。
政党政治とジェンダーフリー
【自由民主党】
- 自民党は、男女同室着替えをジェンダーフリー教育の結果だとしている。空き教室があるにもかかわらず同室で着替えさせていると主張している。また自由民主党と民主党の違いは「ジェンダーフリーを推進しているかどうかだ」としている。
【日本共産党】
- 日本共産党は、ジェンダーフリー教育を擁護している。
【民主党】
- 「老若男女が、それぞれ生きがいを感じる社会システムづくりが社会全体を豊かにするのです。性別役割分業を固定化しない(ジェンダーフリー)社会こそ、日本を再創造するカギとなります。」と主張している。
- (民主党政策集)
ジェンダーフリーの実践例等
ジェンダーフリーの実践として次のような例があると言われている。しかし、男女別学学校の男女共学化などは必ずしもジェンダーフリーの意図をもって行われているとは限らない。なお、日本教職員組合は、男女同室着替えには反対の立場であり、「更衣室の整備拡充」を文部科学省に要求している。また、女子大学はそのまま放置している。ただし、ジェンダーフリー思想とは全く別個に、少子高齢化を生き抜く方便として、女子大学が共学化する事例は各地で実在する。
【 教育現場 】
以前より日本教職員組合などは、「男の子だけの通過儀礼を廃止せよ」といった、ジェンダーフリーにつながる主張を行ってきた。さらに、女性の社会進出が進むにつれ、学校教育はより細かいジェンダーバイアスの撤廃を指摘されるようになった。そして男女共同参画基本法の制定により、一つの教育運動となったものである。
具体的な事例としては、以下のような事が教育現場で行われていると言われる。
- クラス名簿を男女混合にする。
- 「男女」の名詞を「女男」に変える。
- スカートは最も「女らしい」服装なので、制服からスカートを廃止しようとした。
- 女子の体操着のブルマー廃止と同時に、男子の短パンも廃止し、男女兼用のハーフパンツとする。また、かつてはトレーニングウェアの色を男子は青や紺・深緑、女子は赤やエンジとしていたが、男女共用の青や緑(黄緑・青緑)、紫(青紫・赤紫)などどちらにも相応しい色に切り替えた。
- 運動会の競技を男女混合にする。
- ロッカーや下駄箱の男女別の禁止。
- 小学校教科書の記述を「点検」。「男の子はズボンに女の子はスカートに髪かざり」、「おじいさんは反物売り、おばあさんは家で」、「およめに来て・・・・およめに行く」、「小さなお母さんになってお昼を作る」などの表現をジェンダーフリーに反するものとする。
- 男女別学の公立高校を共学にする。(大学では、女子大学はあるのに、男子大学はない。)
- 高校入試の合格者数を、男女同数にするよう要求する。
- 黒や赤などのランドセルの色を家庭が選択することを禁止し、「女男ともに黄色いランドセル」といった、統一色を要求する。
- ジェンダーフリーを英文で使う(ジェンダーフリーは和製英語)。
- 空き教室があるにもかかわらず(無い場合もある)男女同室着替えをさせる。
- 過激な性教育をおこなう(賛成派は子供の権利と主張。反対派は年齢に相応しない、純粋な子供の心を傷付けるなどと主張)
- 男性器の模型に避妊具を被せる練習を行わせる。
- 白い液体(牛乳)が出る男性器の模型を使う。
- 性器がついた男女の人形に性行為をさせ、生徒に見せる。
- 性描写がある絵本を見せる。
- 運動会の踊りで、母親がごはんをつくる曲が、ジェンダーフリーに反するという理由から歌詞のない演奏にされる(ふりーせる)。
【 団体等の活動 】
教育行政や団体の運動としては、次のような事例が挙げられる。
- 日本教職員組合は2005年3月に発刊した「日教組政策制度要求と提言」の政策提言62において、国への政策提言として、男女平等教育のための基本方針の策定、学校における男女平等教育推進のための教職員への研究の実施、性別役割分業に基づく記述や挿し絵をなくすために教科書の検定にジェンダーの視点を入れることなどを提案している。また、活動のひとつとして「毎年2月をメディア・チェック月間と位置づけ、社会の中や自分の中にある「固定的なジェンダー意識」に気付き、問題化し、放送機関や関係機関に対し要請行動を行なって」いると述べている。
- 日本女性学習財団発行の冊子『新子育て支援 未来を育てる基本のき』において、「無意識のうちに、子どもたちに『女らしさ』や『男らしさ』を押しつけるような子育てをしていませんか? ふり返ってみましょう」との言葉とともに、
- 「ひな祭り」や「鯉のぼり」といった伝統行事
- 女の子に「さくら」「美咲」「優花」という愛らしい名前をつけたり、男の子に「翔太」「翼」「大輝」というスケールの大きい名前をつけること
- 出産祝いで、女児にピンクの産着、男児に水色の産着を贈ること
- などが、ジェンダーフリーに反する例として挙げられた。
- ※ 冊子の記述について、「ひな祭り」や「鯉のぼり」のような伝統行事を否定するなどいきすぎであるとの指摘がなされたが、これに対して日本女性学会は、2003年3月の学会ニュースにて、これらの伝統行事に含まれていた「男は強く元気に/女は優しく美しく」と、「性別と人のありかたを結びつけるシンボリズム」は今日では適切でないとし、5月5日がこどもの日であるようにひなまつりも性別によらない祝いにするのが良い、との回答を行った。
- 2003年に福岡市で開かれた女性フォーラムにおいて、昔話の「桃太郎」を「桃子」に変更し、ストーリーを改変させた劇を上演。鬼を退治することでなく、話し合いによって解決する内容となっている。これは「男性=暴力的、女性=平和的」といったイメージから作られたと思われる。
- 新設の男子高校に対し、共学化を要求する。
(これについて、既存の女子大学に関しては何も行動を取っておらず事実上黙認しているため、矛盾ではないかとの意見もある。) - 第156回国会において、社会民主党・市民連合の議員が、財界の出資による「全寮制男子校」設置の構想を批判したうえで、「今後、性別に特化した学校を設立することは、「男女共同参画」と矛盾するのではないか」等の質問を行った。
(これについて、多数の女子大学がある一方で男子大学はただ1校しかないことには言及されていないため、矛盾ではないかとの意見もある。)
- ※ なお、これについて政府は、男女の共学については教育上尊重されるべきものであるが、すべての学校における男女の共学を一律に強制する趣旨のものではない、との見解を示している(参考:衆議院質問答弁・第156回常会質問23)。
- 「ジェンダーチェック」を行い、ジェンダーフリーを"理解"していないと「化石」と認定される。
関連リンク
- 男性のためのジェンダーチェック表(日本労働組合総連合会)
- 過激な性教育・ジェンダーフリーの調査結果自由民主党のホームページより
- これでいいのか?性教育-教室はアダルトショップ-
- 恐るべしジェンダーフリー教育(長尾誠夫のHOTPAGE)
ジェンダーフリーの思想的背景
日本でジェンダーフリーという政治運動が起こった背景について、推進側は、女性の社会進出(賃金労働者化)が進み、男女観も多様化した中で、従来の男らしさ・女らしさというステレオタイプによる評価基準を不合理に感じたり窮屈に感じる人が増えてきたためとしている。女性の高学歴化が進むに従い「男性並の権利や生活」を求める女性も出てきた。しかし性差や「らしさの壁」に遮られ、男性と同等には扱われないことに気づき、男女の区別を廃止してしまう(ジェンダーフリー)ことに解決の道を見出した、といったものである。
そのため「男女共同参画社会基本法」が作られ、同法が一部のフェミニストたちに「ジェンダーフリーを推進するもの」だと認識されたことが、この運動が広がった要因のひとつだと考えられている。
本来はジェンダーフリーが「社会的・文化的に作られた性(日本語の「ジェンダー」)からの離脱の自由」を認める風潮を目指すはずが、「社会的・文化的に作られた性(日本語の「ジェンダー」)そのものが悪であり、無くす必要がある」にいつしか摩り替わった。それがフェミニストが画策した男女共同参画政策に連動した、教育現場でのジェンダーフリー教育で明らかになるにつれて、保守派の反発も受けることになった。 また、日本の代表的フェミニストの1人である上野千鶴子が著書『ジェンダー・フリーは止まらない』(松香堂)にも収録された2001年4月15日、NPO法人フィティ・ネット設立記念フォーラムでの講演にて、一個人が私的な思想信条の範疇で「女は嫁に行くのが一番だ、と私は信じています」と述べる行為すらも、「ドイツではヒットラーを支援するような発言をすると犯罪を構成します。(中略)人種に関しては許されないことが、なぜ女に関しては言ってもいいのでしょうか。それが「思想信条の自由」のもとに許していいのか、と思います。」と聴衆に訴えかけ、思想信条の自由を奪うべきとの立場からジェンダーフリーを説いた事実もあり、ジェンダーフリー批判が必ずしも誤解や中傷の類とは言えない側面も多分にある。
ジェンダーフリーの理論的・思想的背景については、ラディカル・フェミニストの江原由美子によれば社会主義のイデオロギーから来ているという(『フェミニズムの名著50』)。歴史的にみるとジェンダーフリーの発祥はフランスの社会主義者シャルル・フーリエの理論、フーリエによって提唱された「ファランステール」という生活集団に見られる(『フェミニズムの歴史』)。また旧ソ連ではアレンクサンドラ・コロンタイが同じような政策(家族廃止、家事労働の共同化等)を打ち出した。しかし、この政策は失敗に終わり1934年には旧ソ連政府も根本的見直しをすることになった(ニコラス・S・ティマシェフ「ロシアにおける家族廃止の試み」)。ジェンダーフリーと社会・共産主義の結びつきについては、安藤紀典「マルクス主義の女性解放論」が詳しい。
ただし現在のジェンダーフリー運動は、直接的には第二波フェミニズムを源としているという見方がされている。社会的文化的に形成された性別(ジェンダー)から解放されるべきだというジェンダーフリー運動の理論的背景は、社会主義・共産主義から直接繋がっているというよりも、フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』に代表される実存主義フェミニズムや、マルクス主義を女性運動の理論的根拠に採り入れたフェミニズム理論(ラディカル・フェミニストのシュラミス・ファイアストーンによる「妊娠・出産によって性の階級制度が生み出され、女性への抑圧となる構造は解消されるべきだ」という主張など)が大きく影響しているといえよう。これは、男女を権力関係と見なす傾向や、女性の「性と生殖に関する権利」などが主張される点に良く現れている。
しかし、にも関わらず、日本のジェンダーフリー運動は、アメリカ、ヨーロッパ、共産主義国のフェミニズム運動とは異なる部分も多い。それはジェンダーフリーという語が日本固有であること、さらにジェンダーフリーが問題にするジェンダーは「日本文化におけるジェンダー」であることに起因していると言えるだろう。
関連リンク
- EON/W(トランスジェンダーを解説するサイト)より
ジェンダーフリーにおける生物学的問題
ジェンダーフリーの論者は、ジェンダーフリーを正当化する理論として、ジェンダー(社会的性別)は後天的な要因が大きく関わって決定されるという説を主張している。文化人類学者マーガレット・ミードの研究、さらに性科学者ジョン・マネーの研究をその根拠付けに参照する著者も存在した。また、生物学的性差とは独立に後天的要因のみによって決定されるという急進的な主張をするフェミニストも存在した。
だが近年、ジョン・マネーの研究は間違いであったことが明らかになった(デイヴィッド・ライマーの項を参照)。これにより、ジェンダーフリーの学術的な正当性は否定されたとの指摘を、反対派は行った。
上記の事実が明らかになった後、賛同派は、「すでにジェンダーフリー思想は様々な多岐にわたる分野の研究成果から成立しており古い学説に依拠するような時代は大昔に過ぎ去っている」とした(関連、文化相対主義、社会的構築主義)が、実際には、ジョン・マネーが唱えた説は近年に出版されたフェミニズムの書物などにも記されている。それゆえ、「賛同派は自らが依拠していた説をご都合主義的に翻した」との批判も受けることになった。
しかし、性差が後天的な要因でのみ決定されるという説が否定されたことは、性差が先天的な要因のみで決まるということが証明されたことを意味しない。これまで保守派の一部がジェンダーフリーを批判するために援用してきた脳神経学や遺伝子学などの分野において、男女の脳は従来言われていたほどの差はないのではないか、という傾向の主張もあり、ジェンダーフリー推進側は、このような主張にも注目すべきだとしている(最近の脳神経学の研究をわかりやすく紹介している本としては、田中富久子『脳の進化学 ――男女の脳はなぜ違うのか』など)。
関連項目
- ジェンダー
- フェミニズム
- フェミニスト
- メンズリブ
- 性自認
- 性教育
- 男女共同参画社会
- マーガレット・ミード
- ジョン・マネー
- デイヴィッド・ライマー
- 女人禁制
- 男尊女卑
- 石原慎太郎
- 田嶋陽子
- 安倍晋三
- 野村旗守
- 男性差別
- 林道義
- 八木秀次
- 米田健三
- 高市早苗
- 山谷えり子
関連文献
肯定的立場
- 日本女性学会ジェンダー研究会著 『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング―バックラッシュへの徹底反論』 明石書店 (2006/06) ISBN 4750323489
- 上野千鶴子・宮台真司・斉藤環・小谷真理他共著 『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』 双風舎 (2006/06/26) ISBN 4902465094
- 関連リンク 『バックラッシュ!』発売記念キャンペーン (chiki(成城トランスカレッジ!)、macska(macska dot org))
否定的立場
- 西尾幹二著 『新・国民の油断 「ジェンダーフリー」「過激な性教育」が日本を亡ぼす』 PHP研究所 (2005/01/12) ISBN 4569638120
- 野村旗守編 『男女平等バカ「ジェンダーフリー」はモテない女のヒガミである!家庭、学校、社会、自治体、中央官庁の“ジェンダーな”事件簿 年間10兆円の血税をたれ流す、“男女共同参画”の怖い話!』 宝島社 (2005/12/02) ISBN 4-7966-5040-7
関連特集(雑誌・テレビ等)
平成十八年五月十日号 箱もの利権ほか 暴走するジェンダーフリー これは白い文化大革命だ
平成十八年九月二十七日号 対中外交からニート利権まで 血税にたかる! 掠める! 喰らう! 悪い奴ら
外部リンク
肯定的立場
- ジェンダーフリーとは (chiki (荻上チキ) 成城トランスカレッジ)
中立的立場(ジェンダーフリーだが極端な肯定派も糾弾する良識派)
- 男女共同参画・ドメスティックバイオレンス・ジェンダー(「ある作家のホームページ」より)
- ジェンダーフリーていねHP
否定的立場
- ジェンダーフリー入門編
- これがジェンダーフリーの正体だ(徳澤健 日本を変える!)
- 成城トランスカレッジ「ジェンダーフリーとは」の嘘とデマ(Bruckner05 川崎市の教育を考える会)