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生来の話好きであったため、紙芝居師は森下の天職となった{{R|荒川ゆうネット2003}}。観客である子供たちとの信頼関係を大事にし、病気で紙芝居を見に来られない子供がいれば、その子の家を訪ね、その子のためだけに紙芝居を演じることもあった{{R|声をなくした紙しばい屋さん_p85}}。また、昭和初期にあった紙製の人形で芝居を演じる[[紙芝居#「立絵」の紙芝居|立ち絵紙芝居]]を改良し、後に知られる紙芝居の上演スタイルを作り上げたことから、[[紙芝居#街頭紙芝居|街頭紙芝居]]の草分けともいわれる<ref name="中日新聞20101014m_p28">{{Cite news|language=ja|title=TOKYO発 黄金バット三代 紙芝居師一家 50代会社員が襲名へ 闘病の父に約束 ゼロから勉強|newspaper=[[中日新聞]]|edition=朝刊|date=2010-10-14|publisher=[[中日新聞社]]|page=28}}</ref>。
生来の話好きであったため、紙芝居師は森下の天職となった{{R|荒川ゆうネット2003}}。観客である子供たちとの信頼関係を大事にし、病気で紙芝居を見に来られない子供がいれば、その子の家を訪ね、その子のためだけに紙芝居を演じることもあった{{R|声をなくした紙しばい屋さん_p85}}。また、昭和初期にあった紙製の人形で芝居を演じる[[紙芝居#「立絵」の紙芝居|立ち絵紙芝居]]を改良し、後に知られる紙芝居の上演スタイルを作り上げたことから、[[紙芝居#街頭紙芝居|街頭紙芝居]]の草分けともいわれる<ref name="中日新聞20101014m_p28">{{Cite news|language=ja|title=TOKYO発 黄金バット三代 紙芝居師一家 50代会社員が襲名へ 闘病の父に約束 ゼロから勉強|newspaper=[[中日新聞]]|edition=朝刊|date=2010-10-14|publisher=[[中日新聞社]]|page=28}}</ref>。


[[1932年]](昭和7年)には紙芝居の品質向上を図るための団体として「日本画劇教育協会」を設立し、当時の[[文部省|文部]][[政務次官]]、後に[[国務大臣]]・[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]となる[[安藤正純]]を会長に迎えた{{R|芸能人物事典_p579}}<ref>{{Cite journal|和書|author=[[阪本一郎]]|date=1977|title=幻の紙芝居『黄金バット』|journal=保育論叢|issue=12|page=28|publisher=[[文教大学女子短期大学部]]児童科|url=https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4696&item_no=1&page_id=29&block_id=40 |format=PDF|accessdate=2020-11-15|naid=120006421011}}</ref>。息子3人と娘婿も跡を継いでおり{{R|荒川ゆうネット2003}}、[[1952年]](昭和27年)には東京都紙芝居コンクールで三男の[[森下正雄]]、翌[[1953年]](昭和28年)の同コンクールでは長男が特選を獲得したことで、森下家は一躍、紙芝居一家として知られることとなった<ref name="読売新聞19921101m_p14">{{Cite news|language=ja|author=西島大美|date=1992-11-1|title=ひゅーまん探訪 森下貞義・正雄さん兄弟 ガン克服、二人三脚紙芝居|newspaper=[[読売新聞]]|edition=東京朝刊|publisher=[[読売新聞社]]|page=14}}</ref>。[[1981年]](昭和56年)には当時の日本に5万人いた紙芝居師の中から業界初となる[[瑞宝章|勲六等瑞宝章]]を受章した{{R|芸能人物事典_p579}}<ref name="サライ20041021_p224">{{Cite journal|和書|author=出井邦子|date=2004-10-21|title=卵と乳製品が元気の秘訣です 森下正雄|journal=[[サライ (雑誌)|サライ]]|volume=16|issue=22|pages=224|publisher=[[小学館]]|id={{NCID|AN10549990}}}}</ref>。
[[1932年]](昭和7年)には紙芝居の品質向上を図るための団体として「日本画劇教育協会」を設立し、当時の[[文部省|文部]][[政務次官]]、後に[[国務大臣]]・[[文部大臣]]となる[[安藤正純]]を会長に迎えた{{R|芸能人物事典_p579}}<ref>{{Cite journal|和書|author=[[阪本一郎]]|date=1977|title=幻の紙芝居『黄金バット』|journal=保育論叢|issue=12|page=28|publisher=[[文教大学女子短期大学部]]児童科|url=https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4696&item_no=1&page_id=29&block_id=40 |format=PDF|accessdate=2020-11-15|naid=120006421011}}</ref>。息子3人と娘婿も跡を継いでおり{{R|荒川ゆうネット2003}}、[[1952年]](昭和27年)には東京都紙芝居コンクールで三男の[[森下正雄]]、翌[[1953年]](昭和28年)の同コンクールでは長男が特選を獲得したことで、森下家は一躍、紙芝居一家として知られることとなった<ref name="読売新聞19921101m_p14">{{Cite news|language=ja|author=西島大美|date=1992-11-1|title=ひゅーまん探訪 森下貞義・正雄さん兄弟 ガン克服、二人三脚紙芝居|newspaper=[[読売新聞]]|edition=東京朝刊|publisher=[[読売新聞社]]|page=14}}</ref>。[[1981年]](昭和56年)には当時の日本に5万人いた紙芝居師の中から業界初となる[[瑞宝章|勲六等瑞宝章]]を受章した{{R|芸能人物事典_p579}}<ref name="サライ20041021_p224">{{Cite journal|和書|author=出井邦子|date=2004-10-21|title=卵と乳製品が元気の秘訣です 森下正雄|journal=[[サライ (雑誌)|サライ]]|volume=16|issue=22|pages=224|publisher=[[小学館]]|id={{NCID|AN10549990}}}}</ref>。


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95歳まで現役の紙芝居師として活躍した後{{R|荒川ゆうネット2003}}、引退後は自作の創作紙芝居を携えて、[[ボランティア]]で[[老人ホーム]]の慰問活動を行なった{{R|芸能人物事典_p579|読売新聞19921101m_p14}}。[[1987年]](昭和62年)まで現役の紙芝居師を貫いた後{{R|サライ20041021_p224}}、翌1988年(昭和63年){{R|芸能人物事典_p579}}、満96歳で死去した{{R|声をなくした紙しばい屋さん_p85|サライ20041021_p224}}(95歳の説あり{{R|読売新聞19921101m_p14}})。息子たちの没後も、孫にあたる[[森下昌毅]](正雄の長男)が3代目として紙芝居を上演している{{R|中日新聞20101014m_p28}}。

2020年12月30日 (水) 09:31時点における版

もりした ていぞう

森下 貞三
生誕 静岡県
死没 1988年
国籍 日本の旗 日本
職業 紙芝居師
時代 昭和
団体 日本画劇教育協会
子供 森下貞義、森下正雄
家族 森下昌毅(孫)
栄誉 勲六等瑞宝章1981年
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森下 貞三(もりした ていぞう、? - 1988年昭和63年〉)は、日本紙芝居師静岡県出身。

元は指物師として家具製造の職についていたが、1927年(昭和2年)以降の昭和金融恐慌の煽りで仕事が激減していたところ、近所に住んでいた紙芝居の貸元「松島家」から紙芝居の舞台の製作の依頼があり、松島家の親方の勧めで同年に紙芝居師となった[1]。後には松島家の跡を継ぎ、多くの弟子を抱えた[2][3]

生来の話好きであったため、紙芝居師は森下の天職となった[3]。観客である子供たちとの信頼関係を大事にし、病気で紙芝居を見に来られない子供がいれば、その子の家を訪ね、その子のためだけに紙芝居を演じることもあった[1]。また、昭和初期にあった紙製の人形で芝居を演じる立ち絵紙芝居を改良し、後に知られる紙芝居の上演スタイルを作り上げたことから、街頭紙芝居の草分けともいわれる[4]

1932年(昭和7年)には紙芝居の品質向上を図るための団体として「日本画劇教育協会」を設立し、当時の文部政務次官、後に国務大臣文部大臣となる安藤正純を会長に迎えた[2][5]。息子3人と娘婿も跡を継いでおり[3]1952年(昭和27年)には東京都紙芝居コンクールで三男の森下正雄、翌1953年(昭和28年)の同コンクールでは長男が特選を獲得したことで、森下家は一躍、紙芝居一家として知られることとなった[6]1981年(昭和56年)には当時の日本に5万人いた紙芝居師の中から業界初となる勲六等瑞宝章を受章した[2][7]

95歳まで現役の紙芝居師として活躍した後[3]、引退後は自作の創作紙芝居を携えて、ボランティア老人ホームの慰問活動を行なった[2][6]1987年(昭和62年)まで現役の紙芝居師を貫いた後[7]、翌1988年(昭和63年)[2]、満96歳で死去した[1][7](95歳の説あり[6])。息子たちの没後も、孫にあたる森下昌毅(正雄の長男)が3代目として紙芝居を上演している[4]

脚注

  1. ^ a b c 関朝之『声をなくした紙しばい屋さん』PHP研究所〈PHPノンフィクション〉、2008年8月、85-90頁。ISBN 978-4-569-68900-5 
  2. ^ a b c d e 石川愛他編 編『芸能人物事典 明治大正昭和日外アソシエーツ、1998年11月、579頁。ISBN 978-4-8169-1513-0https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E4%B8%8B+%E8%B2%9E%E4%B8%89-16743712015年6月9日閲覧 
  3. ^ a b c d 生涯現役! この人に会いたい! 紙芝居児童文化保存会・名作実演者 森下正雄さん”. 荒川ゆうネット アーカイブ. 荒川区 (2003年). 2015年6月9日閲覧。
  4. ^ a b 「TOKYO発 黄金バット三代 紙芝居師一家 50代会社員が襲名へ 闘病の父に約束 ゼロから勉強」『中日新聞中日新聞社、2010年10月14日、朝刊、28面。
  5. ^ 阪本一郎幻の紙芝居『黄金バット』」(PDF)『保育論叢』第12号、文教大学女子短期大学部児童科、1977年、28頁、NAID 1200064210112020年11月15日閲覧 
  6. ^ a b c 西島大美「ひゅーまん探訪 森下貞義・正雄さん兄弟 ガン克服、二人三脚紙芝居」『読売新聞読売新聞社、1992年11月1日、東京朝刊、14面。
  7. ^ a b c 出井邦子「卵と乳製品が元気の秘訣です 森下正雄」『サライ』第16巻第22号、小学館、2004年10月21日、224頁、NCID AN10549990