コンテンツにスキップ

「リンスク条約」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: プロイセンに関連する改名に伴う修正依頼 (王領プロイセン) - log
7行目: 7行目:
| date_signed = [[1655年]][[11月12日]]
| date_signed = [[1655年]][[11月12日]]
| location_signed = {{仮リンク|リンスク|en|Ryńsk}}(ドイツ語名ラインスベルク)
| location_signed = {{仮リンク|リンスク|en|Ryńsk}}(ドイツ語名ラインスベルク)
| parties = [[ブランデンブルク選帝侯領]]<br />[[プロイセン公国|プルシ公国]]<br />[[ポーランド王領プロシア|王領プルシ]]
| parties = [[ブランデンブルク選帝侯領]]<br />[[プロイセン公国|プルシ公国]]<br />[[王領プロイセン|王領プルシ]]
| language =
| language =
| website =
| website =
| wikisource =
| wikisource =
}}
}}
'''リンスク条約'''(リンスクじょうやく、{{lang-en|Treaty of Rinsk}})は、[[北方戦争]]中の[[1655年]]11月2日([[ユリウス暦]])/[[11月12日]]([[グレゴリオ暦]])に締結された、[[プロイセン公国|公領プルシ]](ドイツ語名プロイセン)と[[ポーランド王領プロシア|王領プルシ]]の同盟<ref name="Frost171">Frost (2000), p. 171.</ref>。[[ブランデンブルク選帝侯]]兼プロイセン公[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]と王領プルシの貴族はブランデンブルク軍を王領プルシに駐留させることに同意、[[バルト帝国|スウェーデン]]軍の侵攻から身を守ろうとした<ref name="Frost171" />。しかし[[グダニスク|ダンツィヒ]](ポーランド語名グダニスク)、[[トルン|ソーン]](ポーランド語名トルン)、[[エルブロンク|エルビング]](ポーランド語名エルブロンク)は条約に参加しなかったためブランデンブルク軍の駐留はなく、ダンツィヒ以外はスウェーデンに降伏した<ref name="Frost171" />。王領プルシの残りも[[マルボルク|マリエンブルク]]を除いて全てスウェーデンに占領され、フリードリヒ・ヴィルヘルムのの軍勢は[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]まで追撃を受けた後、1656年1月の[[ケーニヒスベルク条約 (1656年)|ケーニヒスベルク条約]]でスウェーデンの宗主権を受け入れることを余儀なくされた<ref name="Frost171" />。
'''リンスク条約'''(リンスクじょうやく、{{lang-en|Treaty of Rinsk}})は、[[北方戦争]]中の[[1655年]]11月2日([[ユリウス暦]])/[[11月12日]]([[グレゴリオ暦]])に締結された、[[プロイセン公国|公領プルシ]](ドイツ語名プロイセン)と[[王領プロイセン|王領プルシ]]の同盟<ref name="Frost171">Frost (2000), p. 171.</ref>。[[ブランデンブルク選帝侯]]兼プロイセン公[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]と王領プルシの貴族はブランデンブルク軍を王領プルシに駐留させることに同意、[[バルト帝国|スウェーデン]]軍の侵攻から身を守ろうとした<ref name="Frost171" />。しかし[[グダニスク|ダンツィヒ]](ポーランド語名グダニスク)、[[トルン|ソーン]](ポーランド語名トルン)、[[エルブロンク|エルビング]](ポーランド語名エルブロンク)は条約に参加しなかったためブランデンブルク軍の駐留はなく、ダンツィヒ以外はスウェーデンに降伏した<ref name="Frost171" />。王領プルシの残りも[[マルボルク|マリエンブルク]]を除いて全てスウェーデンに占領され、フリードリヒ・ヴィルヘルムのの軍勢は[[ケーニヒスベルク (プロイセン)|ケーニヒスベルク]]まで追撃を受けた後、1656年1月の[[ケーニヒスベルク条約 (1656年)|ケーニヒスベルク条約]]でスウェーデンの宗主権を受け入れることを余儀なくされた<ref name="Frost171" />。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年1月1日 (金) 00:01時点における版

リンスク条約
{{{image_alt}}}
種類防衛同盟
署名1655年11月12日
署名場所リンスク英語版(ドイツ語名ラインスベルク)
締約国ブランデンブルク選帝侯領
プルシ公国
王領プルシ

リンスク条約(リンスクじょうやく、英語: Treaty of Rinsk)は、北方戦争中の1655年11月2日(ユリウス暦)/11月12日グレゴリオ暦)に締結された、公領プルシ(ドイツ語名プロイセン)と王領プルシの同盟[1]ブランデンブルク選帝侯兼プロイセン公フリードリヒ・ヴィルヘルムと王領プルシの貴族はブランデンブルク軍を王領プルシに駐留させることに同意、スウェーデン軍の侵攻から身を守ろうとした[1]。しかしダンツィヒ(ポーランド語名グダニスク)、ソーン(ポーランド語名トルン)、エルビング(ポーランド語名エルブロンク)は条約に参加しなかったためブランデンブルク軍の駐留はなく、ダンツィヒ以外はスウェーデンに降伏した[1]。王領プルシの残りもマリエンブルクを除いて全てスウェーデンに占領され、フリードリヒ・ヴィルヘルムのの軍勢はケーニヒスベルクまで追撃を受けた後、1656年1月のケーニヒスベルク条約でスウェーデンの宗主権を受け入れることを余儀なくされた[1]

脚注

  1. ^ a b c d Frost (2000), p. 171.

参考文献

  • Frost, Robert I (2000) (英語). The Northern Wars. War, State and Society in Northeastern Europe 1558-1721. Harlow: Longman. ISBN 978-0-582-06429-4