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「劉皇后 (石勒)」の版間の差分

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[[333年]]7月、石勒が崩御して[[石弘]](劉皇后の子ではない)が即位すると、尊んで[[皇太后]]に立てられた。
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[[丞相]]となった[[石虎]]は朝政を専断し、要職にはみな自らの側近を起用した。また、太子宮を崇訓宮と改称すると、劉皇太后以下をみな移住させた。劉皇太后はこれを憂え、彭城王[[石堪]]へ「先帝が崩御して以降、丞相の横暴はここまでのものとなった。皇祚が滅ぶのは久しくはないであろう。これこそ虎を養って自らが害されるというものだ。王はこれをどう図るというのか」と問うと、石堪は「先帝の旧臣は皆外に斥けられ、軍兵もまた我らの思い通りとなりません。宮殿の内には策略を巡らす所はありません。臣は[[エン州|兗州]]に出奔するよう請い、廩丘に拠ります。そして、南陽王([[石恢]])を盟主として担ぎ、太后の詔をもって諸々の牧・守・征・鎮に命じ、各々義兵を率いて共に桀逆を討つのです。そうすれば成功しない訳がありません」と答えた。劉皇太后は「事は急を要する。速やかに発するように。最も恐れるのは計画が滞っている間に変事が生じることです」と述べると、石堪はこれに同意した。
[[丞相]]となった[[石虎]]は朝政を専断し、要職にはみな自らの側近を起用した。また、太子宮を崇訓宮と改称すると、劉皇太后以下をみな移住させた。劉皇太后はこれを憂え、彭城王[[石堪]]へ「先帝が崩御して以降、丞相の横暴はここまでのものとなった。皇祚が滅ぶのは久しくはないであろう。これこそ虎を養って自らが害されるというものだ。王はこれをどう図るというのか」と問うと、石堪は「先帝の旧臣は皆外に斥けられ、軍兵もまた我らの思い通りとなりません。宮殿の内には策略を巡らす所はありません。臣は[[兗州]]に出奔するよう請い、廩丘に拠ります。そして、南陽王([[石恢]])を盟主として担ぎ、太后の詔をもって諸々の牧・守・征・鎮に命じ、各々義兵を率いて共に桀逆を討つのです。そうすれば成功しない訳がありません」と答えた。劉皇太后は「事は急を要する。速やかに発するように。最も恐れるのは計画が滞っている間に変事が生じることです」と述べると、石堪はこれに同意した。


9月、石堪は軽騎兵を率いて兗州を強襲するも失敗してしまった。これにより計画が石虎に漏れてしまい。石堪は石虎の派遣した将軍[[郭太]]らに捕らえられ、火炙りの刑に処された。劉皇太后もまた間もなく誅殺された。
9月、石堪は軽騎兵を率いて兗州を強襲するも失敗してしまった。これにより計画が石虎に漏れてしまい。石堪は石虎の派遣した将軍[[郭太]]らに捕らえられ、火炙りの刑に処された。劉皇太后もまた間もなく誅殺された。

2021年3月1日 (月) 05:08時点における版

劉皇后
後趙の皇后
在位 330年 - 333年

死去 333年
配偶者 石勒
氏族 匈奴屠各種
父親 劉閏
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劉 皇后(りゅうこうごう、? - 333年)は、後趙の初代皇帝石勒皇后。兄は前趙侍中劉閏匈奴屠各種の傍系であるという。

生涯

石勒により胡門において妻として迎えられた。その容貌は美しく、さらに徳を持ち合わせていたので、大いに寵愛された。

ある時、張裨という人物が襄城において反乱を起こし、石勒に背いた。この時、劉夫人は剣を引き抜くと、自ら張裨を斬った。こうして石勒は劉夫人を頼みとして乱を収める事が出来た。

313年4月、前趙皇帝劉聡が石勒を侍中・征東大将軍に任じると、劉夫人は上党国太夫人に立てられ、王妃と同等の章綬首飾をつけることを許された。

330年2月、石勒が趙天王を称すと、劉夫人は天王后に立てられた。9月、石勒が帝位に即くと、皇后に立てられた。

333年7月、石勒が崩御して石弘(劉皇后の子ではない)が即位すると、尊んで皇太后に立てられた。

丞相となった石虎は朝政を専断し、要職にはみな自らの側近を起用した。また、太子宮を崇訓宮と改称すると、劉皇太后以下をみな移住させた。劉皇太后はこれを憂え、彭城王石堪へ「先帝が崩御して以降、丞相の横暴はここまでのものとなった。皇祚が滅ぶのは久しくはないであろう。これこそ虎を養って自らが害されるというものだ。王はこれをどう図るというのか」と問うと、石堪は「先帝の旧臣は皆外に斥けられ、軍兵もまた我らの思い通りとなりません。宮殿の内には策略を巡らす所はありません。臣は兗州に出奔するよう請い、廩丘に拠ります。そして、南陽王(石恢)を盟主として担ぎ、太后の詔をもって諸々の牧・守・征・鎮に命じ、各々義兵を率いて共に桀逆を討つのです。そうすれば成功しない訳がありません」と答えた。劉皇太后は「事は急を要する。速やかに発するように。最も恐れるのは計画が滞っている間に変事が生じることです」と述べると、石堪はこれに同意した。

9月、石堪は軽騎兵を率いて兗州を強襲するも失敗してしまった。これにより計画が石虎に漏れてしまい。石堪は石虎の派遣した将軍郭太らに捕らえられ、火炙りの刑に処された。劉皇太后もまた間もなく誅殺された。

評価

聡明であり、多くの才能と謀略を持っていた。また、肝が据わっており、知略に富んでいたので、石勒はいつも彼女を軍議に参画させては、戦略・方策を決定させたという。こうして軍国の事務を治めて石勒を補佐し、功業を打ち立てるのを多いに助けた。これは呂氏(呂雉)がを輔けたのと同様であった。彼女は厳正にして秩序があり、節操を固く守っていた。また、物腰は柔らかく穏やかで、度量が大きく嫉妬をしなかった。この点においては呂氏を凌いでいた。

伝記資料