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「左渓玄朗」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
俗姓は傅氏で、[[傅大士]]の6世の子孫に当たる。[[ブ州|婺州]]烏傷県([[浙江省]][[金華市]][[東陽市]])の人。
俗姓は傅氏で、[[傅大士]]の6世の子孫に当たる。[[婺州]]烏傷県([[浙江省]][[金華市]][[東陽市]])の人。


9歳で出家し、[[如意 (元号)|如意]]元年([[692年]])に得度した。その後、慧威の下で天台宗義を学んだ。その他、観法は恭禅師から学び、[[儒教|儒]]・[[道教|道]]二教にも通暁した。広範な知識を身につけはしたが、最終的には、天台[[止観]]の実践的な教法に専心するに決した。
9歳で出家し、[[如意 (元号)|如意]]元年([[692年]])に得度した。その後、慧威の下で天台宗義を学んだ。その他、観法は恭禅師から学び、[[儒教|儒]]・[[道教|道]]二教にも通暁した。広範な知識を身につけはしたが、最終的には、天台[[止観]]の実践的な教法に専心するに決した。

2021年3月1日 (月) 05:11時点における版

玄朗
672年 - 753年
生地 婺州烏傷県
宗派 天台宗
寺院 左渓山
慧威
弟子 湛然
著作 『法華経科文』
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左渓玄朗(さけい げんろう、672年 - 753年)は、中国天台宗の僧侶。字は慧明、左渓と号した。慧威の弟子で、湛然の師。天台宗の第5祖。

生涯

俗姓は傅氏で、傅大士の6世の子孫に当たる。婺州烏傷県(浙江省金華市東陽市)の人。

9歳で出家し、如意元年(692年)に得度した。その後、慧威の下で天台宗義を学んだ。その他、観法は恭禅師から学び、二教にも通暁した。広範な知識を身につけはしたが、最終的には、天台止観の実践的な教法に専心するに決した。

生まれ故郷の婺州で、浦陽県(浙江省金華市浦江県)に在る左渓山に入山し、以後30年余の間、山居を続けた。開元16年(728年)には、婺州刺史の招致に応じて州城に住したこともあったが、自らの病いを理由に帰山した後は、再び山を出ることは無かった。

一時、同門の永嘉玄覚を左渓に招こうとしたが、玄覚は、宗教的実践に街巷と山中の別なし、と弁じて謝絶した。玄覚の著書『永嘉集』には、玄朗と玄覚の間の書簡集を収録している。

玄朗の弟子からは、天台中興と称せられる湛然が出ている。また、法融らの僧が、新羅に天台の教法を伝えている。

著書

  • 『法華経科文』2巻

伝記資料

参考文献

  • 長倉信祐「左渓玄朗における初期禅宗諸師との交渉:李華の『故左渓大師碑』を中心に」(『仏教文化学会紀要』17、2008年)


師:慧威天台宗(中国)弟子:湛然