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しかし、本国にあった宰相[[范雎]]が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都[[邯鄲市|邯鄲]]に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。
しかし、本国にあった宰相[[范雎]]が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都[[邯鄲市|邯鄲]]に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。


[[紀元前259年]]、秦は[[王陵]]を起用して邯鄲を包囲し、翌[[紀元前258年]]には増派もして、さらに指揮官を[[王コツ|王齕]]に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の[[信陵君]]・楚の[[春申君]]に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『[[戦国策]]』によれば、この時慌てた范雎と[[昭襄王]]が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。
[[紀元前259年]]、秦は[[王陵]]を起用して邯鄲を包囲し、翌[[紀元前258年]]には増派もして、さらに指揮官を[[王齕]]に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の[[信陵君]]・楚の[[春申君]]に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『[[戦国策]]』によれば、この時慌てた范雎と[[昭襄王]]が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。


だが、これがさらに立場を悪くし、[[紀元前257年]]、ついに昭襄王によって[[賜死|自害させられた]]。自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。
だが、これがさらに立場を悪くし、[[紀元前257年]]、ついに昭襄王によって[[賜死|自害させられた]]。自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。

2021年3月1日 (月) 22:36時点における版

白起
白起(明人絵)
プロフィール
出生: 不詳
死去: 紀元前257年11月
杜郵
出身地:
職業: 軍人
各種表記
繁体字 白起
簡体字 白起
拼音 Bái Qǐ
発音転記: パイ チー
英語名 Bai Qi
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白 起(はく き、? - 紀元前257年11月)は、中国戦国時代末期のの武将。公孫[1]とも表記される。秦国郿(現在の陝西省宝鶏市眉県)の人。昭襄王に仕え、各地を転戦してなどの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。

経歴

以下は『史記』白起・王翦列伝による。

紀元前294年左庶長に任ぜられ、の新城を攻めた。

紀元前293年、左更にすすみ、韓・を攻め、伊闕の戦いで24万を斬首した。また、魏将公孫喜を捕え、5城を落とした。

紀元前292年大良造に任じられ魏を攻め、大小61城を落とした。

紀元前278年を攻め、楚の首都を落とした(鄢・郢の戦い)。このため、楚は陳に遷都した。同年、武安君の称を賜っている。

紀元前273年、魏の華陽を攻め、韓・魏・の将軍を捕え、13万を斬首した(華陽の戦い)。また、趙将賈偃と戦い、士卒2万を黄河に沈めた。

紀元前264年、韓の陘城を攻め、5城を落とし、5万を斬首した(陘城の戦い)。

紀元前260年長平の戦いでは、巧みな用兵で趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込み大勝した。このとき20万余りに及ぶ捕虜の兵糧が賄えず、反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした[2][3]

しかし、本国にあった宰相范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。

紀元前259年、秦は王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と昭襄王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王齕の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。

だが、これがさらに立場を悪くし、紀元前257年、ついに昭襄王によって自害させられた。自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。

評価

司馬遷は、『史記』において、白起を「料敵合変、出奇無窮、声震天下(敵の能力を図って作戦を変え、奇策を無限に繰り出した。彼の勢威は天下を震わせた)」と評している。一方で、その伝の末尾に「非常に有能な将軍であったが、(身内であるはずの)范雎の患いから逃れることができなかった」と記し、王翦と共に優れた人物でありながら、欠点もあった人物であったと評価する。のち、三国の将軍鄧艾が讒言をうけて殺される前に、自らを白起になぞらえて身の危機を悟ったとの記述が『三国志』にある。

白起を題材とした作品

脚注

  1. ^ 戦国策』「趙策」の巻十八趙一、巻二十趙三による。
  2. ^ 『史記』の捕虜の生き埋めに関する記述は誇大なものであると長年考えられてきたが、1995年5月の長平の古戦場における発掘調査でそれと思われる人骨が大量に出土し、多くの研究者を驚かせた。
  3. ^ 永禄第一尸骨坑の発掘レポートによれば発掘済第一坑の屍体数は130人程度、ほかに18坑を発見、調査中である永禄第一尸骨坑のレポート