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[[董卓]]配下の将。[[初平]]1年([[190年]])、[[孫堅]]軍の進攻を食い止めるため、董卓の命令により[[徐栄]]と共に豫州へ出撃している。初平3年([[192年]])、董卓暗殺事件勃発後、反乱を起こした[[李傕]]・[[郭汜]]に同調して長安に攻め寄せた元董卓配下の軍人の一人として、[[樊稠]]、[[王方]]と共に名が挙がっている。しかし袁宏『後漢紀』献帝紀によると、長安陥落後に撫軍中郎将となった李蒙は、理由は不明であるが[[興平 (漢)|興平]]2年([[195年]])2月に李{{lang|zh|傕}}に殺害されたという。


== 物語中の李蒙 ==
== 物語中の李蒙 ==

2021年3月9日 (火) 08:32時点における版

李 蒙(り もう、? - 195年)は、中国後漢時代末期の武将。

正史の事跡

姓名 李蒙
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 195年興平2年)
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 撫軍中郎将
爵位・号等 -
陣営・所属等 董卓李傕
家族・一族 〔不詳〕

董卓配下の将。初平1年(190年)、孫堅軍の進攻を食い止めるため、董卓の命令により徐栄と共に豫州へ出撃している。初平3年(192年)、董卓暗殺事件勃発後、反乱を起こした李傕郭汜に同調して長安に攻め寄せた元董卓配下の軍人の一人として、樊稠王方と共に名が挙がっている。しかし袁宏『後漢紀』献帝紀によると、長安陥落後に撫軍中郎将となった李蒙は、理由は不明であるが興平2年(195年)2月に李に殺害されたという。

物語中の李蒙

小説『三国志演義』においては、董卓が呂布王允らの謀略により殺害された後、王方らと長安に居た李蒙は李等の入城を助け、王允政権を転覆させた。のち、馬騰韓遂の軍が長安を攻めてきた際、初陣の馬超に捕らえられて殺害される。

参考文献