「崔烈」の版間の差分
m Bot作業依頼: 「李カク (後漢)」→「李傕」等の改名に伴うリンク修正依頼 (李傕) - log |
|||
13行目: | 13行目: | ||
霊帝没後、[[十常侍]]による[[何進]]暗殺と、[[袁紹]]らによる宦官誅殺事件により後漢朝が混乱すると、[[段珪]]が連れ去った霊帝の子の[[少帝弁|少帝]]と陳留王(後の[[献帝 (漢)|献帝]])を保護した。しかし、その後の[[董卓]]の専横の前には無力であり、関東に逃れた袁紹の挙兵に子の崔均が賛同したため、投獄されている。 |
霊帝没後、[[十常侍]]による[[何進]]暗殺と、[[袁紹]]らによる宦官誅殺事件により後漢朝が混乱すると、[[段珪]]が連れ去った霊帝の子の[[少帝弁|少帝]]と陳留王(後の[[献帝 (漢)|献帝]])を保護した。しかし、その後の[[董卓]]の専横の前には無力であり、関東に逃れた袁紹の挙兵に子の崔均が賛同したため、投獄されている。 |
||
董卓が[[王允]]・[[呂布]]らに暗殺された後、董卓の残党が蜂起すると城門校尉として[[長安]]を守備したものの、[[ |
董卓が[[王允]]・[[呂布]]らに暗殺された後、董卓の残党が蜂起すると城門校尉として[[長安]]を守備したものの、[[李傕]]らが長安を占拠すると、王允ら他の多くの官人と共に殺害された。 |
||
小説『[[三国志演義]]』では、架空の弟である[[崔毅 (三国演義)|崔毅]]の兄として名前だけ登場する。のちに城門校尉として登場し、董卓の仇討にきた李傕・[[郭汜]]らの放縦により国難に殉じて戦死した。 |
小説『[[三国志演義]]』では、架空の弟である[[崔毅 (三国演義)|崔毅]]の兄として名前だけ登場する。のちに城門校尉として登場し、董卓の仇討にきた李傕・[[郭汜]]らの放縦により国難に殉じて戦死した。 |
2021年3月9日 (火) 08:32時点における版
崔 烈(さい れつ、? - 192年)は、中国後漢末期の政治家・軍人。字は威考[1]。父は崔盤[2]。子は崔均(字は元平、議郎[3])・崔鈞(字は州平、虎賁中郎将[4]・西河太守[5][6])。幽州涿郡安平県(現在の河北省衡水市安平県)の人[7]。
『後漢書』・『三国志』に記述がある。司徒・太尉・城門校尉。「漢故博陵太守孔府君碑」の碑陰に、「故吏、司徒掾」として名があることから、博陵郡の役人と司徒掾を経験していると推測される。
生涯
若いころから名高く、要職を歴任していた。
185年、霊帝の御代に売官制が行われた時、大金で司徒の官位を買い、自らの名声を失墜させた。また、子の崔均にも批判されるようになった。また、この時の崔均の発言から「銅臭」(銅銭の臭いが酷い金権政治)という成語が生まれた。以後も太尉など要職を務めた(なお崔烈の後任として、同じく大金を積んで187年に太尉となった曹嵩は、曹操の父である)。
西において韓遂・王国らが異民族と結んで反乱を起こすと、その対策として涼州を放棄する案を提案し、傅燮に激しく批判された。
霊帝没後、十常侍による何進暗殺と、袁紹らによる宦官誅殺事件により後漢朝が混乱すると、段珪が連れ去った霊帝の子の少帝と陳留王(後の献帝)を保護した。しかし、その後の董卓の専横の前には無力であり、関東に逃れた袁紹の挙兵に子の崔均が賛同したため、投獄されている。
董卓が王允・呂布らに暗殺された後、董卓の残党が蜂起すると城門校尉として長安を守備したものの、李傕らが長安を占拠すると、王允ら他の多くの官人と共に殺害された。
小説『三国志演義』では、架空の弟である崔毅の兄として名前だけ登場する。のちに城門校尉として登場し、董卓の仇討にきた李傕・郭汜らの放縦により国難に殉じて戦死した。