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この年、[[李傕]]は[[献帝 (漢)|献帝]]を手中に収めた後、公卿を郭汜の下に派遣して講和させようとした。郭汜は公卿の1人[[楊彪]]に助言を求めたが、楊彪が李{{Lang|zh|傕}}と郭汜の2人を批判したため、郭汜は怒ってこれを斬ろうとした。しかし、楊密や他の郭汜側近が諫止したので、ようやくその場は収まったという。同様の場面は『[[後漢書]]』董卓伝にもあるが、こちらでは楊密の名は現れない。


小説『[[三国志演義]]』にも登場し、史実と同様の行動をとっている。
小説『[[三国志演義]]』にも登場し、史実と同様の行動をとっている。

2021年3月9日 (火) 08:33時点における版

楊 密(よう みつ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。

正史の事跡

姓名 楊密
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 中郎将
爵位・号等 -
陣営・所属等 郭汜
家族・一族 〔不詳〕

三国志』魏書董卓伝注に引く『漢書』にのみ、その記載がある人物。

郭汜配下。興平2年(195年)に中郎将の地位にあった。 この年、李傕献帝を手中に収めた後、公卿を郭汜の下に派遣して講和させようとした。郭汜は公卿の1人楊彪に助言を求めたが、楊彪が李と郭汜の2人を批判したため、郭汜は怒ってこれを斬ろうとした。しかし、楊密や他の郭汜側近が諫止したので、ようやくその場は収まったという。同様の場面は『後漢書』董卓伝にもあるが、こちらでは楊密の名は現れない。

小説『三国志演義』にも登場し、史実と同様の行動をとっている。

参考文献