「陸玩」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 邳郗郯郴などの改名に伴うリンク修正依頼 (郗鑒) - log |
|||
4行目: | 4行目: | ||
[[高平郡|高平国]]相の陸英の子として生まれた。東海王[[司馬越]]に掾として召されたが、就任しなかった。琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]に召されて丞相参軍となった。累進して、奮武将軍の号を加えられた。[[侍中]]に任じられたが、病を理由に辞した。 |
[[高平郡|高平国]]相の陸英の子として生まれた。東海王[[司馬越]]に掾として召されたが、就任しなかった。琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]に召されて丞相参軍となった。累進して、奮武将軍の号を加えられた。[[侍中]]に任じられたが、病を理由に辞した。 |
||
[[王敦]]にその長史となるよう求められ、軍令によって迫られたため、やむをえず命に従った。[[324年]]([[太寧 (東晋)|太寧]]2年)に王敦の乱が平定されると、[[郗鑒]]が王敦の旧幕僚や佐官たちをみな免官禁錮にしようと意見したが、[[ |
[[王敦]]にその長史となるよう求められ、軍令によって迫られたため、やむをえず命に従った。[[324年]]([[太寧 (東晋)|太寧]]2年)に王敦の乱が平定されると、[[郗鑒]]が王敦の旧幕僚や佐官たちをみな免官禁錮にしようと意見したが、[[温嶠]]が上表して弁護したため、陸玩は連座しなかった。再び侍中に任じられ、吏部尚書に転じた。会稽王師を兼ねるよう命じられたが、固辞して受けなかった。 |
||
[[327年]]([[咸和 (東晋)|咸和]]2年)に[[蘇峻]]が[[蘇峻の乱]]を起こすと、陸玩は兄の[[陸曄]]とともに[[建康 (都城)|建康]]の宮城を守った。陸玩はひそかに匡術を説得して、[[329年]](咸和4年)に帰順させた。功績により興平伯に封じられた。[[330年]](咸和5年)、尚書左僕射となり、[[揚州 (古代)|揚州]]大中正を兼ねた。[[331年]](咸和6年)、[[尚書令]]となった。左光禄大夫・[[開府儀同三司]]の位を受け、[[散騎常侍]]の任を加えられた。 |
[[327年]]([[咸和 (東晋)|咸和]]2年)に[[蘇峻]]が[[蘇峻の乱]]を起こすと、陸玩は兄の[[陸曄]]とともに[[建康 (都城)|建康]]の宮城を守った。陸玩はひそかに匡術を説得して、[[329年]](咸和4年)に帰順させた。功績により興平伯に封じられた。[[330年]](咸和5年)、尚書左僕射となり、[[揚州 (古代)|揚州]]大中正を兼ねた。[[331年]](咸和6年)、[[尚書令]]となった。左光禄大夫・[[開府儀同三司]]の位を受け、[[散騎常侍]]の任を加えられた。 |
2021年3月10日 (水) 14:51時点における版
陸 玩(りく がん、天紀2年(278年) - 咸康7年12月14日(342年1月7日))は、中国の東晋の官僚・政治家。字は士瑤。本貫は呉郡呉県。祖父は陸瑁(陸遜の実弟)。父は陸英。伯父は陸喜。兄は陸曄。
経歴
高平国相の陸英の子として生まれた。東海王司馬越に掾として召されたが、就任しなかった。琅邪王司馬睿に召されて丞相参軍となった。累進して、奮武将軍の号を加えられた。侍中に任じられたが、病を理由に辞した。
王敦にその長史となるよう求められ、軍令によって迫られたため、やむをえず命に従った。324年(太寧2年)に王敦の乱が平定されると、郗鑒が王敦の旧幕僚や佐官たちをみな免官禁錮にしようと意見したが、温嶠が上表して弁護したため、陸玩は連座しなかった。再び侍中に任じられ、吏部尚書に転じた。会稽王師を兼ねるよう命じられたが、固辞して受けなかった。
327年(咸和2年)に蘇峻が蘇峻の乱を起こすと、陸玩は兄の陸曄とともに建康の宮城を守った。陸玩はひそかに匡術を説得して、329年(咸和4年)に帰順させた。功績により興平伯に封じられた。330年(咸和5年)、尚書左僕射となり、揚州大中正を兼ねた。331年(咸和6年)、尚書令となった。左光禄大夫・開府儀同三司の位を受け、散騎常侍の任を加えられた。
340年(咸康6年)、庾亮が死去すると、陸玩は代わって司空に上った。342年1月7日(咸康7年12月癸酉)に死去した。享年は64。諡は康といった。
逸話
- 陸玩は弱冠にして美名があり、賀循はその清廉公平さを称揚していた。
- 王導が江南にやってきたとき、結婚話を陸玩に持ちこんだが、陸玩が「小高い丘には松や柏はなく、香草と臭草は同じ器に入れません。陸玩は才能のない人間ではありますが、乱倫を始めさせない義は持ち合わせております」と答えたため、王導は取りやめた。
- 陸玩が王導のもとを訪れて、酪を食べたところ、このため病にかかってしまった。王導に「僕は呉人でありますが、少々北方の鬼になってしまいました」と手紙を書いた。
- 陸玩が司空に任じられると、ある人が邸を訪れて、柱と梁の間に一杯の酒をそそぎ、「当今は材が乏しいので、おまえが柱石となったのだ。人の梁や棟を傾けるでないぞ」と唱えた。陸玩は笑って、「あなたには良い戒めをいただいた」と言った。やがて嘆息し、「わたしが三公となったのは、天下に人がいないからだ」と賓客に言った。
子女
- 陸始(後嗣、侍中・尚書)
- 陸納
家系図
陸続 | 陸褒 | 陸紆 | 陸駿 | 陸遜 | 陸延 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸抗 | 陸晏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸景 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸玄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸機 | 陸蔚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸雲 | 陸夏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸耽 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸瑁 | 陸喜 | 陸育 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸英 | 陸曄 | 陸諶 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸嘏 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸玩 | 陸始 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸納 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸康[ft 1] | 陸儁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸績[ft 2] | 陸宏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸叡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸凱[ft 3] | 陸禕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸胤 | 陸式 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伝記資料
- 『晋書』巻77 列伝第47