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夷王が衰弱すると、辺境の勢力が参朝しなくなったため、夷王は虢公に命じて六師を率いさせ、太原の戎を討伐させた<ref>『[[後漢書]]注』西羌伝所引『竹書紀年』</ref>。
夷王が衰弱すると、辺境の勢力が参朝しなくなったため、夷王は虢公に命じて六師を率いさせ、太原の戎を討伐させた<ref>『[[後漢書]]注』西羌伝所引『竹書紀年』</ref>。


夷王が死去すると、子の[[レイ王 (周)|厲王]]が即位した<ref name="shiki"/>。
夷王が死去すると、子の[[厲王]]が即位した<ref name="shiki"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年3月18日 (木) 10:36時点における版

夷王
第9代王
王朝
在位期間 前885年 - 前878年
都城 鎬京
姓・諱 姫燮
生年 不詳
没年 前878年
懿王
后妃 王姞

夷王(いおう)は、西周時代のの王。姓は姫、名は燮。

周の懿王の子として生まれ、太子となった。しかし懿王が死去すると、共王の弟の孝王が周王として即位した。孝王が死去すると、夷王が周王として即位した[1]

夷王2年、蜀人と呂人が来朝して瓊玉を献じた[2]

夷王3年、紀侯が哀公について夷王に讒言すると、夷王は哀公を鼎で煮殺して、その弟の胡公を斉侯の位につけた[3]

夷王が衰弱すると、辺境の勢力が参朝しなくなったため、夷王は虢公に命じて六師を率いさせ、太原の戎を討伐させた[4]

夷王が死去すると、子の厲王が即位した[1]

脚注

  1. ^ a b 史記』周本紀
  2. ^ 太平御覧』皇王部所引『竹書紀年
  3. ^ 『史記』斉太公世家および『史記正義』周本紀所引『竹書紀年』
  4. ^ 後漢書注』西羌伝所引『竹書紀年』

参考文献