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「秦仲」の版間の差分

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公伯3年([[紀元前845年|前845年]])、父の公伯が亡くなると、その後を継いで秦の当主となった。
公伯3年([[紀元前845年|前845年]])、父の公伯が亡くなると、その後を継いで秦の当主となった。


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秦仲23年([[紀元前822年|前822年]])、周の[[宣王 (周)|宣王]]が秦仲を[[大夫]]として西戎を討伐させたが、逆に秦仲は西戎に殺されてしまった。秦仲の死後は長子の[[荘公 (秦)|荘公]]が継いだ。

2021年3月18日 (木) 10:36時点における版

秦仲(しんちゅう、? - 紀元前822年)は、襄公の祖父。公伯の子。

生涯

公伯の子として生まれる。

公伯3年(前845年)、父の公伯が亡くなると、その後を継いで秦の当主となった。

秦仲3年(前842年)、厲王が無道だったため、諸侯で叛く者が出始めた。西戎もこれに乗じて叛き、犬丘[1]の大駱[2]の一族を滅ぼした。

秦仲23年(前822年)、周の宣王が秦仲を大夫として西戎を討伐させたが、逆に秦仲は西戎に殺されてしまった。秦仲の死後は長子の荘公が継いだ。

脚注

  1. ^ 現在の陝西省宝鶏市扶風県
  2. ^ 秦仲の高祖父。秦の初代当主である非子の父。

参考資料

  • 史記』(秦本紀第五)