「恵帝 (西晋)」の版間の差分
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重臣の間でも衷の資質は危ぶまれており、[[和嶠]]は「淳古の風有るも、而れども季世偽り多し。恐らくは陛下の家事を了えざらん。(皇太子は非常に素直であるが、今の世の中には偽りが多い。おそらくは皇帝の責務を果たすことは出来ないでしょう)」と武帝に諫言している{{sfn|千田豊|2019|p=37}}。また[[ |
重臣の間でも衷の資質は危ぶまれており、[[和嶠]]は「淳古の風有るも、而れども季世偽り多し。恐らくは陛下の家事を了えざらん。(皇太子は非常に素直であるが、今の世の中には偽りが多い。おそらくは皇帝の責務を果たすことは出来ないでしょう)」と武帝に諫言している{{sfn|千田豊|2019|p=37}}。また[[衛瓘]]は宴会の席において皇帝の牀(椅子)を撫で、「此の坐惜しむべし」と遠回しに皇太子廃立を勧めている{{sfn|千田豊|2019|p=37}}。[[278年]][[10月]]、武帝は[[皇太子|東宮]]の官員を集めると、[[尚書]]の業務について司馬衷に決裁させ、これをもって太子にふさわしいかどうかの試験とした。だが、司馬衷はこれに答えられなかったので、賈南風は給使[[張泓]]に代筆を命じたが、故事を用いれば他人が代筆したとばれるので、学門が苦手な司馬衷でも書けそうな及第点ぎりぎりの内容の文章を作らせた。衷はそれを自分の手で書き直してから武帝に提出した。この回答に満足した武帝は大いに喜び、皇太子廃立は取りやめとなった。 |
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同年、側室の[[謝玖]]との間に[[司馬遹]](愍懐太子)を生んだ。司馬遹は幼い頃から頭脳明晰であり、司馬炎から寵愛された。司馬炎が暗愚と言われる司馬衷を後継ぎにした背景には、愛する孫に対する過大な期待もあったと言われている。 |
同年、側室の[[謝玖]]との間に[[司馬遹]](愍懐太子)を生んだ。司馬遹は幼い頃から頭脳明晰であり、司馬炎から寵愛された。司馬炎が暗愚と言われる司馬衷を後継ぎにした背景には、愛する孫に対する過大な期待もあったと言われている。 |
2021年3月22日 (月) 03:32時点における版
恵帝 司馬衷 | |
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西晋 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 西晋 |
在位期間 | 290年5月16日 - 307年1月8日 |
姓・諱 | 司馬衷 |
字 | 正度 |
諡号 | 孝恵皇帝 |
生年 |
甘露4年1月4日 (259年2月13日) |
没年 |
光熙元年11月18日 (307年1月8日) |
父 | 武帝 |
母 | 楊元后 |
后妃 |
賈皇后 羊皇后 |
陵墓 | 太陽陵 |
年号 |
永熙 : 290年 永平 : 291年 元康 : 291年 - 299年 永康 : 300年 - 301年 永寧 : 301年 - 302年 太安 : 302年 - 303年 永安 : 304年 建武 : 304年 永興 : 304年 - 306年 光熙 : 306年 |
恵帝(けいてい)は、西晋の第2代皇帝。諱は衷、字は正度。正式な諡号は孝惠皇帝だが、一般的に恵帝と呼称される。武帝(司馬炎)の次男。母は楊艶。
生涯
皇太子時代
ある時、鼓吹(楽隊)を引き連れて東掖門を通過しようとしたが、臣下が掖門を入る時は儀仗隊を外に留めて車から下りる規則があったので、司隷校尉劉毅より弾劾を受けた。
272年2月、賈充の三女賈南風が太子妃に立てられた。彼女は嫉妬心が強く権謀を好んだので、司馬衷は大いに恐れた。
重臣の間でも衷の資質は危ぶまれており、和嶠は「淳古の風有るも、而れども季世偽り多し。恐らくは陛下の家事を了えざらん。(皇太子は非常に素直であるが、今の世の中には偽りが多い。おそらくは皇帝の責務を果たすことは出来ないでしょう)」と武帝に諫言している[1]。また衛瓘は宴会の席において皇帝の牀(椅子)を撫で、「此の坐惜しむべし」と遠回しに皇太子廃立を勧めている[1]。278年10月、武帝は東宮の官員を集めると、尚書の業務について司馬衷に決裁させ、これをもって太子にふさわしいかどうかの試験とした。だが、司馬衷はこれに答えられなかったので、賈南風は給使張泓に代筆を命じたが、故事を用いれば他人が代筆したとばれるので、学門が苦手な司馬衷でも書けそうな及第点ぎりぎりの内容の文章を作らせた。衷はそれを自分の手で書き直してから武帝に提出した。この回答に満足した武帝は大いに喜び、皇太子廃立は取りやめとなった。
同年、側室の謝玖との間に司馬遹(愍懐太子)を生んだ。司馬遹は幼い頃から頭脳明晰であり、司馬炎から寵愛された。司馬炎が暗愚と言われる司馬衷を後継ぎにした背景には、愛する孫に対する過大な期待もあったと言われている。
楊氏の時代
290年4月、武帝が崩御すると、司馬衷が即位した。大赦を下して永熙と改元し、皇后楊芷を皇太后に、太子妃賈南風を皇后に立てた。5月、司馬炎を峻陽陵に埋葬した。8月、司馬遹を皇太子に立てた。司馬衷が後を継いで以降、楊芷の父である太傅楊駿が朝政を牛耳るようになり、全ての詔は司馬衷が批准した後、楊芷が確認してから発布することになった。だが、楊駿は失政を連発して周囲の諫言を聞かなかったので、大いに衆望を失った。また、楊駿は名望高い汝南王司馬亮を警戒し、司馬衷に詔を書かせて石鑒と張劭に司馬亮誅殺を命じたが、未遂に終わった。10月、和嶠が謁見すると、賈南風は以前の恨みから、司馬衷を介して「卿は以前、朕が家を継ぐに相応しくないと言ったそうだな。今はどう思うか」と詰った。
291年1月、永平と改元した。3月、楊氏を忌み嫌っていた賈南風は殿中中郎孟観・楚王司馬瑋らと政変を起こし、司馬衷に詔を作らせて楊駿が謀反を起こしたと宣言させた。この時、楊駿の甥である段広は跪いて司馬衷へ「楊駿には後継がいないのに、どうして謀反して帝位を狙う必要がありましょう。どうが今一度考え直してくださいますよう」と懇願したが、司馬衷は何も答えられなかった。楊駿とその一族は尽く誅殺され、楊芷は幽閉されて後に殺害された。さらに、楊駿の妻である龐夫人も処刑すべきだとの声が上がると、司馬衷は反対したが、群臣が幾度も訴えたので逆らえずに批准した。その一方、楊駿の部下は全員誅殺すべきだという意見は退けている。同月、大赦を下し、元康と改元した。
賈氏の時代
その後、司馬衷は司馬亮と録尚書事衛瓘に朝政を主管するよう命じた。6月、賈南風は国政掌握を目論み、司馬衷に詔を作らせて司馬瑋に司馬亮と衛瓘の逮捕を命じた。司馬瑋が両者を誅殺すると、司馬衷は賈南風に強要され、殿中将軍王宮を宮殿外に派遣し、諸将に騶虞幡(停戦を命じる旗)を示して「楚王は偽詔を発した。その指揮下に入ることを禁ずる」と宣言した。これにより、賈南風は全ての罪を司馬瑋に擦り付けて処刑した。さらに、司馬衷は衛瓘殺害の実行犯である栄晦一族を誅滅し、司馬亮の爵位を戻して諡号を「文成」と、衛瓘を蘭陵郡公に追封して諡号を「成」とした。これ以降、賈氏一派が朝政を掌握し、特に賈謐・郭彰の権勢は司馬衷を凌ぐ程であった。ただ、彼らは政事については張華・裴頠・賈模といった賢臣に全て委ねてたので、この時期国政は大いに安定した。292年8月、大赦を下した。
295年、荊州・揚州・兗州・豫州・青州・徐州で洪水があったので、詔を下して御史を巡行させ、物資を振る舞った。
296年1月、大赦を下した。5月、匈奴の郝度元は馮翊や北地にいる馬蘭羌・盧水胡(いずれも異民族の名称)と共に関中で挙兵し、北地郡太守張損・馮翊太守欧陽建・雍州刺史解系はいずれも大敗した。8月、秦州・雍州の氐・羌が呼応して一斉に反旗を翻し、斉万年を皇帝に推戴した。11月、司馬衷は安西将軍夏侯駿と建威将軍周処に斉万年討伐を命じたが、翌年1月に敗れて周処は戦死した。
298年1月、司馬衷は詔を下し、穀物庫を解放して雍州の飢えた人々に振る舞った。3月、大赦を下した。
299年1月、左積弩将軍孟観が斉万年征伐に赴き、中亭で大勝を収めて斉万年を捕らえた。
299年12月、司馬遹の長子司馬虨(司馬衷の孫)が重病に罹ると、司馬遹は王爵を与えるよう求めたが、司馬衷は却下した。賈南風は司馬遹を陥れようと謀り、司馬遹に酒を飲ませて酩酊状態に陥らせ、恵帝と賈皇后を廃するという内容の文章を書かせ、司馬衷に提出した。司馬衷は群臣を集めると、黄門令董猛に司馬遹が書いたという文章を発表させ、司馬遹へ死を下賜すると宣言した。だが、重臣の張華と裴頠は偽作を疑って頑なに反対したので、司馬衷はこれを認めて庶人に落とすのみに留めた。
300年1月、大赦を下し、永康と改元した。賈南風は黄門の一人に、太子と謀反を図ったと嘘の供述をさせて自首させた。司馬衷はこの供述を公卿に示すと、東武公司馬澹に命じて兵千人で司馬遹を許昌宮に護送して幽閉させた。この時、司馬衷は宮臣へ司馬遹の見送りを禁じたが、多くの官僚が涙を流しながら司馬遹を見送ったという。3月、賈南風は司馬遹を殺害した。
4月、趙王司馬倫は側近の孫秀・梁王司馬肜・斉王司馬冏と共に司馬遹の仇を討つ事を大義名分として政変を決行し、司馬衷の詔と称して近衛軍を従わせた。華林県令駱休は司馬倫に内応し、司馬衷を東堂に招き入れて詔を作らせ、賈謐を呼び寄せて誅殺した。さらに、宮中に兵が乱入して賈南風が捕らえられると、彼女は遠くにいる司馬衷に向かって「陛下の妻が廃されようとしております。陛下もすぐに廃位に追い込まれることになりますぞ!」と叫んだという。賈氏一族は尽く処断され、司馬倫に恨まれていた重臣の張華と裴頠も殺害された。乱が鎮まると、司馬衷は司馬倫を相国に任じた。また、司馬遹の位を戻すと共に、尚書和郁と東宮の官員に命じて許昌からその亡骸を迎え入れさせた。また、司馬遹の冤罪を知りながら、保身を図って弁護しなかった王衍を罷免した。5月、司馬遹の子である司馬臧を皇太孫に立てた。6月、司馬遹を顕平陵に葬った。
司馬倫の簒奪
司馬倫はひとまずは人心掌握と司馬衷の補佐に務めていたが、やがて権力を独占するようになった。しかし、司馬倫は才能に乏しく知略が無かったので、実際には側近の孫秀が百官を動かした。8月、淮南王司馬允(司馬衷の弟)は司馬倫の振る舞いに不平を抱き、排斥を目論んで決起したが、失敗して殺害された。同月、大赦が下された。孫秀の意により司馬衷が詔を発し、司馬倫に九錫を下賜した。さらに、娘の河東公主は孫秀の子の孫会に嫁いだ。11月、大赦を下し、羊献容を皇后に立てた。
301年1月、司馬倫は帝位簒奪を決行すると、義陽王司馬威を宮殿に派遣して司馬衷から皇帝の璽綬を奪い、禅詔(帝位を譲る詔)を書かせた。司馬衷は太上皇とされ、金墉城(この時永昌宮と改称された)に幽閉された。なお、皇帝経験者で上皇の称号を贈られたのは、司馬衷が最初である。皇太孫司馬臧は廃され、やがて殺された。
3月、三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒)が司馬倫討伐を掲げて決起すると、洛陽へ進撃した。4月、洛陽でも左衛将軍王輿らが政変を起こして司馬倫を廃位して、金墉城から司馬衷を招き入れた。群臣が頓首して謝罪すると、司馬衷は「卿らの過失ではない」と咎めなかった。その後、司馬衷は使者を派遣して三王を慰労し、また司馬倫に死を賜ると、司馬威らその一派を誅殺した。永寧と改元し、大赦を下した。5月、襄陽王司馬尚を皇太孫とした。6月、大赦を下した。司馬衷は詔を発して司馬穎の功績を表彰し、大将軍に任じて九錫を下賜する旨を伝えたが、司馬穎は九錫については固辞した。
司馬冏の時代
これ以降、司馬冏が輔政の任についたが、彼は自らの府に百官を招いて政務を行い、司馬衷の批准を仰がずに事案の決済や官員の任免を行った。6月、司馬冏の兄である東萊王司馬蕤は王輿と共に司馬冏を倒す計画を練ったが、事前に露見して誅殺された。
302年3月、皇太孫司馬尚が亡くなり、司馬覃を皇太子に立てた。
12月、長沙王司馬乂が司馬冏討伐の兵を挙げると、宮中に入って司馬衷を支配下に置き、司馬冏のいる大司馬府を攻撃して諸々の観閣や千秋門・神武門を焼き討ちさせた。城内では雨のように矢が飛び交い、炎の勢いは天まで届かん程となったので、司馬衷は上東門に避難したが、そのすぐ側まで矢が届いたので、近臣は身を挺して守ったという。さらに、百官は消火に励んだが、その過程で次々に命を落とした。戦いは三日間続いたが、最終的に司馬冏は敗れて捕えられた。司馬乂が司馬衷の前に司馬冏を差し出すと、司馬衷はこれを痛ましく思って助命しようとしたが、司馬乂は近臣を叱責して司馬冏を連れ出した。司馬冏は司馬衷の方を振り向いて助けを期待したが、閶闔門外で処刑された。大赦を下し、太安と改元した。
司馬穎・司馬顒の時代
303年5月、司馬顒・司馬穎が司馬乂討伐の兵を挙げると、司馬衷は詔を発し「司馬顒は独断で大軍を動員し、京都(洛陽)を侵そうとしている。朕は自ら六軍を率いて姦逆の臣を誅殺する。」と述べ、司馬乂に逆臣討伐を命じ、太尉・大都督・中外諸軍事に任じた。司馬穎軍が迫ると、司馬衷は自ら軍を率いて洛陽城東から緱氏に入り、司馬穎の将軍牽秀を攻撃して撤退させた。同じく司馬穎の将軍石超が緱氏に逼迫すると、司馬衷は洛陽の宮殿に退却した。10月、陸機軍20万が洛陽に迫ると、司馬乂は司馬衷を奉じて陸機を迎撃してこれに大勝し、さらに司馬顒配下の張方軍7万を撃破した。
304年1月、司馬乂は司馬穎軍に連戦連勝であったものの、合戦は長期に渡ったので城内は食糧が欠乏してしまい、洛陽城内にいる東海王司馬越は司馬乂には勝ち目がないと判断して殿中諸将と共に司馬乂を捕らえた。翌日、司馬越は司馬衷にこの事を報告すると、司馬衷は司馬乂の官を免じて金墉城に幽閉するという詔を発した。張方は洛陽に入ると司馬乂を処刑した。司馬衷は司馬穎を丞相に任じた。
2月、司馬顒の上書により、皇后羊献容・皇太子司馬覃を廃し、司馬穎を皇太弟とした。
7月、司馬越は右衛将軍陳眕・上官巳らと共に司馬穎討伐を掲げて決起すると、司馬衷を奉じて共に鄴へ向けて軍を発した。この時、司馬衷は大赦を下して羊献容・司馬覃を復位させた。司馬穎は配下の石超に防戦を命じ、石超は蕩陰で皇帝軍を奇襲し、皇帝軍は大敗を喫した。この時、司馬衷の頬にも三本の矢が当たって顔を傷つけた。百官や侍御は司馬衷を見捨てて逃走してしまったが、ただ侍中嵆紹だけは身を挺して司馬衷を守った。司馬穎の兵が襲い掛かると、嵆紹は乗輿から引きずり出され、司馬衷は「忠臣である。殺してはならん!」と叫んだが、兵士たちは「太弟(司馬穎)の命では、犯してはならぬのは、陛下ただ一人としいわれております」と述べ、命を無視した。雨の如く降り注ぐ矢により、嵆紹は遂に司馬衷のすぐ側で射殺され、血飛沫が服に飛び散った。司馬衷はその死を目の当たりにして、深く哀しみ嘆いた。司馬衷は馬車から転げ落ち、この時皇帝の玉璽を紛失したという。石超は司馬衷の姿を見つけると、陣営に連れ帰った。司馬衷が飢えと渇きを訴えると、石超は司馬衷を軽視していたので、水と季節外れの秋桃を与えたという。司馬穎は盧志を派遣して司馬衷を鄴に迎え入れ、司馬衷は鄴に入ると大赦を下して建武と改元した。側近は血の付いた服を洗おうとしたが、司馬衷は「これは嵆侍中の血である。拭き取ってはならん」と声を荒げたという。司馬穎は司馬衷を擁するようになると、百官の役所を設置して自らの独断で任官や処罰を行った。
8月、都督幽州諸軍事王浚と東嬴公司馬騰は司馬穎討伐を掲げて決起すると、司馬穎はこれに連敗したので司馬衷を連れて洛陽へ逃走しようと考えた。盧志が司馬衷のいる部屋に入ると、司馬衷は盧志へ「なぜ散敗したのに、朕の前に来たのか」と尋ねた。盧志は「賊は鄴城から80里の所に迫っており、人士は一朝にして驚き離散しました。太弟(司馬穎)は今、陛下を奉じて洛陽に還りたいと考えております」と応えると、司馬衷は「甚だ良し」と答えた。こうして盧志らは司馬衷の乗った犢車を御して鄴を出発した。だが、一行は金銭も物資も不充分な状況で出発したので、司馬衷は詔を発して宦官が隠し持っていた銭三千を借り受け、道中で食物を得た。夜は司馬衷も宦官と同じ布団を使い、食事は瓦盆に盛られるというあり様であった。温県に入ると、司馬衷は先祖の陵に赴いたが、この時靴を無くしたので、従者の靴を履いて陵墓に向かって涙ながらに拝礼したという。洛陽を守る張方は子の張羆に兵を与えて一行を迎え入れさせ、司馬衷は張方の車に乗って洛陽へ帰還した。張方が司馬衷に拝謁しようとすると、司馬衷は車を下りてそれを止めさせた。司馬衷が宮殿に帰ったと伝わると、四散した百官も次第に集まり始めた。
10月、匈奴の大単于劉淵は晋朝からの自立を宣言し、漢王に即位した(前趙の樹立)。同月、益州を制圧した巴氐族の李雄は成都王に即位した(成漢の樹立)。
11月、再び永安と改元した。張方は長安への遷都を目論み、司馬衷に宗廟への拝謁を勧めて連れ出そうとしたが、司馬衷は拒否した。その為、張方は兵を率いて宮殿に入ると、強引に自らの車に司馬衷を乗せようとした。驚いた司馬衷は後園の竹林に逃げたが、兵士達は司馬衷を連れ出して無理矢理車に乗せた。司馬衷は涙ながらに従う他なく、ただ盧志だけが側に侍って慰めた。司馬衷は張方に伴われて長安へ移送された。途中、新安を通った時、司馬衷は馬から落ちて足をくじいてしまったが、尚書高光は面衣を進呈したので、司馬衷は喜んだという。司馬顒は一行を出迎えると、進み出て拝謁しようとしたが、司馬衷は車を降りてそれを止めさせた。12月、詔を発し、司馬穎を皇太弟から廃して謹慎を命じ、代わって司馬熾(後の懐帝)を皇太弟に立てた。また、司馬顒を都督中外諸軍事に、張方を中領軍・録尚書事・領京兆尹に任じた。同月、永興と改元した。
305年7月、司馬越は皇帝奪還を掲げて徐州で決起し、東平王司馬楙・王浚・范陽王司馬虓・平昌公司馬模らもまたこれに呼応した。司馬衷は密かに劉虔を派遣し、司馬越と司馬楙に正式に官爵を与えた。10月、司馬顒は司馬衷の詔を奉じて司馬越らに封国に帰還するよう命じたが、応じなかった。
306年5月、司馬越配下の祁弘らは長安を攻略し、司馬衷を牛車に乗せて洛陽に帰還した。司馬衷は太弟太保梁柳を鎮西将軍に任じ、関中を守らせた。6月、洛陽に帰還して旧殿に戻ると、司馬衷は涙を流したという。その後、羊献容を皇后に復位させ、太廟に拝謁した。さらに大赦を下して光熙に改元した。8月、司馬衷は南中郎将劉陶に逃亡中の司馬穎逮捕を命じた。9月、頓丘郡太守馮嵩が司馬穎を捕らえて鄴に送還し、翌月に長史劉輿により殺害された。
11月、洛陽の顕陽殿にて、麺餅(穀物粉を主体とした軽食類)を食べて食中毒になり、48歳で崩御した。司馬越が毒殺したともいわれる。遺体は太陽陵に埋葬された。後に孝恵皇帝と諡された。
人物・逸話
逸話
司馬衷の暗愚さを示す逸話は正史である『晋書』にもいくつか残されている[1]。
- 司馬遹が諸皇子と共に殿上で戯れていた時、当時皇太子であった司馬衷がやって来て諸皇子の手を取った。次に司馬衷は司馬遹が自分の子であると気づかずにその手を取ったが、司馬炎が「それは汝の子であるぞ」と言うと、司馬衷は気づいて手を離したという。
- ある時、華林園で蛙の声を聞くと、司馬衷は側近の者へ「この蛙は公事のために鳴いているのか、それとも私事のために鳴いているのか」と尋ねた。すると、ある者がからかって「公有地にいるときは公のために、私有地にいるときは私のために鳴いているのですぞ」と返したという(『晋書』巻4、恵帝紀)[2]。
- 天下が荒れ果てて、穀物がないため民衆が餓死していると聞いた司馬衷は「何不食肉糜(何故挽肉で作った粥を食べぬのか)」と言った(『晋書』巻4、恵帝紀)[2][3]。
治世
司馬衷が即位して以降、諸々の政策は全て群臣から出されるようになった。八王の乱に際しては多数の詔書が出されたが、その多くが偽詔かもしくは無理矢理書かされたものであった。綱紀は大いに乱れ、賄賂が公に行われ、貴族の家柄は他者を軽んじ、忠賢の道は断絶した。讒言・邪説をなす者ばかりが得をし、さらに彼らは互いに推挙し合うので、天下の人々はこれを、互いに市を為していると言い立ったという。高平王司馬沈は『釈時論』を、南陽出身の魯褒が『銭神論』を、廬江出身の杜嵩が『任氏春秋』を著したが、これらはみな当時の政治腐敗を憂いたものであった。ただ、『資治通鑑』を著した北宋の司馬光は、前述した嵆紹の死に関する話から、実は司馬衷は暗愚ではなく装っていた(仮痴不癲)のではないかと擁護論を唱えている。
宗室
后妃
子女
- 謝玖との子
- 愍懐太子 司馬遹
- 賈南風との子女
- 河東公主 - 彼女が病気となると、賈南風は祈祷師に看させた。祈祷師は政令を緩和すべしと答えたので、賈南風は司馬衷の名をもって大赦を下した。賈南風の死後、孫秀の子孫会に嫁いだ。
- 始平公主
- 弘農公主 司馬宣華 - 傅祗の子である傅宣に嫁いだ。永嘉の乱により懐帝が前趙に捕らえられると、傅祗の命により司馬宣華は懐帝奪還の為の義軍を募ったという。
- 哀献皇女 司馬女彦 - 8歳の時亡くなった。非常に聡明であり、書学に長けており詩文を書くことが出来たという。賈南風は彼女を寵愛していたので、死の間際に公主に封じようとしたが、司馬女彦は「我は幼く、成人しておりません。公主の礼は不用です」と言い残した。彼女の死後、賈南風は非常に悲しみ、遺言通り公主には封じなかったが、長公主の礼儀をもって喪を執り行った。
- 清河公主 - 『太平御覧』では、羊献容の娘とされている。永嘉の乱が起こると呉興に売り飛ばされ、銭温という人物の奴隷とされた。東晋が成立すると彼女は助け出され、臨海公主に改封されて宗正曹統に嫁いだ。
在位中の年号
- 永熙(290年4月-12月)
- 永平(291年1月-3月)
- 元康(291年3月-299年末)
- 永康(300年-301年4月)
- 永寧(301年4月-302年11月)
- 太安(302年12月-303年末)
- 永安(304年1月-7月)
- 建武(304年7月-11月)
- 永安(304年11月-12月)
- 永興(304年12月-306年6月)
- 光熙(306年6月-12月)崩御は11月だが、次帝による改元は翌年正月。
西暦の後の月は、すべて旧暦である。
脚注
- ^ a b c 千田豊 2019, p. 37.
- ^ a b 千田豊 2019, p. 43.
- ^ alt.usage.english FAQ quoting Gregory Titelman, Random House Dictionary of Popular Proverbs & Sayings, 1996, who in turn cites Zhu Muzhi, head of the Chinese Human Rights Study Society