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司馬瑋は酷刑を多く制定したので朝臣から恐れられていた。また、凶暴でひねくれていたので、当時権勢を握っていた大叔父である[[汝南郡|汝南]]王[[司馬亮]]と[[太保]][[衛瓘]]は大任を任せるに値しないと考え、司馬瑋から兵権を奪うために[[臨海郡|臨海]]侯[[裴楷]]を司馬瑋に代わって北軍中候に任じた。司馬瑋がこれに激怒すると、裴楷は恐れて中候の職を辞した。司馬亮は再び衛瓘と謀り、司馬瑋を始めとした諸王を封国に帰還するよう命じたが、さらに司馬瑋の怒りを買い、司馬亮等との対立を表面化させるようになった。司馬瑋の側近である長史[[公孫宏]]・舎人[[岐盛]]は賈南風と結ぶよう進言し、司馬瑋はこれに従った。賈南風はこれを喜び、司馬瑋に[[太子少傅]]を兼任させて洛陽に留めた。 |
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司馬瑋配下の岐盛は衛瓘と対立しており、司馬瑋からの命令と偽って賈南風配下の積弩将軍李肇へ「司馬亮と衛瓘は皇帝廃立を企んでいる」と告げると、李肇はこれを賈南風に密告した。賈南風は元々司馬亮と衛瓘が政権を掌握しているのを不満に思っていたので、彼らを除く事を決めた。 |
司馬瑋配下の岐盛は衛瓘と対立しており、司馬瑋からの命令と偽って賈南風配下の積弩将軍李肇へ「司馬亮と衛瓘は皇帝廃立を企んでいる」と告げると、李肇はこれを賈南風に密告した。賈南風は元々司馬亮と衛瓘が政権を掌握しているのを不満に思っていたので、彼らを除く事を決めた。 |
2021年3月22日 (月) 03:32時点における版
司馬 瑋(しば い、271年 - 291年)は、中国の西晋の皇族であり、八王の乱の八王の1人。字は彦度。初代皇帝武帝の第6子。生母は審美人。恵帝は異母兄、懐帝は異母弟。同じく八王の1人である長沙王司馬乂は同母弟、成都王司馬穎は異母弟に当たる。
生涯
賈南風と結託
幼い頃から果断で鋭敏であったという。
289年11月、司馬瑋は楚王に改封され、平南将軍・仮節・都督荊州諸軍事に任じられて封国に赴任した。後に鎮南将軍に任じられた。
291年1月、皇后賈南風は外戚楊駿の専横を妬み、宦官董猛や側近の孟観・李肇と共に楊駿誅殺の計略を練った。さらに、李肇を荊州に派遣して司馬瑋にも計画に協力するよう持ち掛けた。司馬瑋は喜んで賛同し、入朝を要請した。楊駿はかねてから司馬瑋の勇猛を恐れており、洛陽へ呼び寄せて手元に置いておきたいと考えていたが、司馬瑋が反発して挙兵するのを恐れて躊躇していた。しかし、司馬瑋自ら入朝を望んだので、楊駿はこれを快く許可した。2月、司馬瑋は洛陽に入った。
3月、賈南風らが決起すると、司馬瑋は司馬門を制圧してこれを援護した。楊駿一派が朝廷から排斥されると、司馬瑋は功績により衛将軍・北軍中候・侍中・太子少傅に任じられ、国政の中枢に参画するようになった。
司馬亮・衛瓘誅殺
司馬瑋は酷刑を多く制定したので朝臣から恐れられていた。また、凶暴でひねくれていたので、当時権勢を握っていた大叔父である汝南王司馬亮と太保衛瓘は大任を任せるに値しないと考え、司馬瑋から兵権を奪うために臨海侯裴楷を司馬瑋に代わって北軍中候に任じた。司馬瑋がこれに激怒すると、裴楷は恐れて中候の職を辞した。司馬亮は再び衛瓘と謀り、司馬瑋を始めとした諸王を封国に帰還するよう命じたが、さらに司馬瑋の怒りを買い、司馬亮等との対立を表面化させるようになった。司馬瑋の側近である長史公孫宏・舎人岐盛は賈南風と結ぶよう進言し、司馬瑋はこれに従った。賈南風はこれを喜び、司馬瑋に太子少傅を兼任させて洛陽に留めた。
司馬瑋配下の岐盛は衛瓘と対立しており、司馬瑋からの命令と偽って賈南風配下の積弩将軍李肇へ「司馬亮と衛瓘は皇帝廃立を企んでいる」と告げると、李肇はこれを賈南風に密告した。賈南風は元々司馬亮と衛瓘が政権を掌握しているのを不満に思っていたので、彼らを除く事を決めた。
6月、賈南風は恵帝に詔を作らせ、司馬瑋へ「太宰(司馬亮)と太保(衛瓘)は伊尹・霍光を模倣して皇帝廃立を企んでいる。王(司馬瑋)は淮南王(司馬允)・長沙王(司馬乂)・成都王(司馬穎)に命じて諸々の宮門を制圧させ、司馬亮と衛瓘の官を免じるように」と命じた。夜になると黄門が詔書を司馬瑋に届けたが、司馬瑋は事が重大である事から恵帝に確認を取ろうとした。だが、黄門は「計画が漏れる恐れがあります。それでは密詔の意味がなくなってしまいます」と退けた。司馬瑋はこれに従い、自ら統括している北軍を動かし、詔を発して洛陽城内外の36軍を集め「二公(司馬亮と衛瓘)は不忠を企んでいる。我は詔を受けて都督中外諸軍事に任じられた。直衛の者は警備を固め、外営にいる将兵は逆賊討伐に協力せよ。司馬亮と衛瓘の官属の罪は全て不問とし、解散を命じる。詔に背く者は軍法によって処罰する」と宣言した。司馬瑋は公孫宏と李肇に司馬亮府を包囲させ、侍中・清河王司馬遐に衛瓘の逮捕を命じた。
司馬亮は李肇に捕縛されたが、司馬瑋の配下は皆司馬亮を哀れに思い、昼を過ぎても誰も手を出す事ができなかった。業を煮やした司馬瑋は「大叔父の汝南王亮を斬った者には1000匹の布を与えよう」と叫ぶと、司馬瑋の兵士たちは北門の壁下で司馬亮と世子の司馬矩を殺害した。衛瓘もまた司馬遐に捕らえられて誅殺された。
最期
司馬亮と衛瓘が討伐されると、岐盛が司馬瑋へ「今の兵の勢いをもって賈謐・郭彰も殺害し、王室を正して天下を安定させるべきです」と進言したが、司馬瑋は躊躇して決断できなかった。夜が明けると、賈南風は司馬瑋が権力を握るのを嫌い、太子少傅張華と謀議して彼を除く事を決めた。
この時、朝廷内外は混乱し、誰も状況が把握できていなかった。張華は恵帝へ、司馬瑋が詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を独断で殺害したと報告した。これを受け、恵帝は諸将へ司馬瑋逮捕を命じた。これを聞き、司馬瑋配下の将兵は全て逃走したので、司馬瑋に付き従う者はおらず、ただ14歳の奴隷だけが側にいた。司馬瑋は秦王司馬柬の下に赴いて助けを求めようとしたが、恵帝は謁者を派遣して司馬瑋へ兵舎に戻るよう命じ、武賁により捕らえられ廷尉に送られた。朝廷は詔を下し、司馬瑋が謀反を起こして司馬亮・衛瓘父子・朝廷大臣を殺害したとして、死刑を命じた。司馬瑋は処刑される前に、司馬亮らの粛清を命じた詔を見せ、監刑尚書劉頌に冤罪を涙ながらに訴えた。劉頌もまた冤罪である事は理解していたがどうする事もできず、涙を流しながら俯く他なかった。司馬瑋は「先帝の子として生まれながら、このような冤罪を受けることになるとは」と嘆き、そのまま処刑された。享年21。公孫宏と岐盛も三族が誅滅された。
司馬瑋は物事を理解し回転力が利いて、施しを好んだので、民衆の心もよく得ていた。その死を聞いて涙しないものなく、人々は祠を立てて祀ったという。
301年、賈南風が誅殺されるに及んで司馬瑋の名誉も回復され、驃騎将軍を追贈された。また、彼の子である司馬範は襄陽王に封じられ、散騎常侍に任じられた。