「拓跋沙漠汗」の版間の差分
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[[267年]]、拓跋沙漠汗は父が既に高齢であったことから、武帝に上表して帰還してもらえるよう請願した。武帝は認め、礼を持って彼を護送した。沙漠汗は[[西晋|晋]]から十数年ぶりに帰還した。その後も晋との通商を親密に行った。 |
[[267年]]、拓跋沙漠汗は父が既に高齢であったことから、武帝に上表して帰還してもらえるよう請願した。武帝は認め、礼を持って彼を護送した。沙漠汗は[[西晋|晋]]から十数年ぶりに帰還した。その後も晋との通商を親密に行った。 |
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[[275年]]6月、沙漠汗は献上品を持って再び晋に赴いた。同年の冬、沙漠汗は国へ帰ろうとすると、晋の武帝は沙漠汗に牛車百乗にもなる[[絹織物|錦]]・罽(けい:毛織物)・絵([[真綿]])・綵・[[綿]]・[[絹]]諸物を送った。征北将軍の[[ |
[[275年]]6月、沙漠汗は献上品を持って再び晋に赴いた。同年の冬、沙漠汗は国へ帰ろうとすると、晋の武帝は沙漠汗に牛車百乗にもなる[[絹織物|錦]]・罽(けい:毛織物)・絵([[真綿]])・綵・[[綿]]・[[絹]]諸物を送った。征北将軍の[[衛瓘]]は、後に患いとなるとし、拓跋沙漠汗を洛陽に留めておくよう上奏したが、武帝は信用を失うことを恐れ許可しなかった。すると、衛瓘はさらに上表し、部族の大人達へ[[賄賂]]を送り、拓跋沙漠汗と離間を図り、彼らを争わせて勢力を削ぐことを勧めた。武帝はこれを認め、拓跋沙漠汗を洛陽へ留まらせた。国の執事及び外部大人は皆、衛瓘の賄賂を受け取った。 |
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[[277年]]、晋朝は拓跋沙漠汗を帰国させた。父の拓跋力微は大喜びし、各部の大人を派遣して出迎えさせ、彼の為に酒宴が催された。その際、沙漠汗が空を飛んでいる鳥を見て、諸大人へ「あの鳥を捕って見せよう」と言い、弾弓で弾を飛ばし、見事に鳥を撃ち落した。当時の拓跋部には弾弓の技術は伝わっておらず、諸大人は皆驚き「太子の振る舞いや服飾は南方の華族のものであり、奇妙な技はこの国には無いものだ。もしこのまま国家を引き継げば、昔の風習は全て改められ、それは我々の望みとは異なる。我々は今までと変わらず純朴で質素に暮らすべきであり、太子の文化は不要である」と言った。皆それに深く同意した。衛瓘の離間工作もあり、彼らは拓跋沙漠汗を陥れようと決意し、拓跋力微の下へ帰った。拓跋力微は「わが子の晋から帰ってきて、どう変わったかね」と尋ねた。すると諸大人は「太子は才芸に優れ、空に弓を引いて飛ぶ鳥を落とします。晋人の妖異の術を得ており、国を乱し民を害する兆しがあります」と述べ、拓跋沙漠汗に謀反の疑いをかけた。拓跋沙漠汗が長らく晋にいた間、彼の兄弟たちは、日々拓跋力微の寵愛を受けていた。また、拓跋力微は既に百歳を超えており、正しい判断ができなかった。大人の話を聞くにつれ、徐々に心中に疑念を生じ「その者を受け入れることはできない。まさにこれを排除すべきだ」と述べた。これを聞いた諸大人はすぐに拓跋沙漠汗の下へ赴き、拓跋力微の命だと偽り沙漠汗を誅殺した。その後、拓跋力微はこのことを甚だ悔んだという。 |
[[277年]]、晋朝は拓跋沙漠汗を帰国させた。父の拓跋力微は大喜びし、各部の大人を派遣して出迎えさせ、彼の為に酒宴が催された。その際、沙漠汗が空を飛んでいる鳥を見て、諸大人へ「あの鳥を捕って見せよう」と言い、弾弓で弾を飛ばし、見事に鳥を撃ち落した。当時の拓跋部には弾弓の技術は伝わっておらず、諸大人は皆驚き「太子の振る舞いや服飾は南方の華族のものであり、奇妙な技はこの国には無いものだ。もしこのまま国家を引き継げば、昔の風習は全て改められ、それは我々の望みとは異なる。我々は今までと変わらず純朴で質素に暮らすべきであり、太子の文化は不要である」と言った。皆それに深く同意した。衛瓘の離間工作もあり、彼らは拓跋沙漠汗を陥れようと決意し、拓跋力微の下へ帰った。拓跋力微は「わが子の晋から帰ってきて、どう変わったかね」と尋ねた。すると諸大人は「太子は才芸に優れ、空に弓を引いて飛ぶ鳥を落とします。晋人の妖異の術を得ており、国を乱し民を害する兆しがあります」と述べ、拓跋沙漠汗に謀反の疑いをかけた。拓跋沙漠汗が長らく晋にいた間、彼の兄弟たちは、日々拓跋力微の寵愛を受けていた。また、拓跋力微は既に百歳を超えており、正しい判断ができなかった。大人の話を聞くにつれ、徐々に心中に疑念を生じ「その者を受け入れることはできない。まさにこれを排除すべきだ」と述べた。これを聞いた諸大人はすぐに拓跋沙漠汗の下へ赴き、拓跋力微の命だと偽り沙漠汗を誅殺した。その後、拓跋力微はこのことを甚だ悔んだという。 |
2021年3月22日 (月) 03:34時点における版
拓跋 沙漠汗(たくばつ さばくかん、拼音:Tuòbá Shāmòhàn、? - 277年)は、鮮卑族拓跋部の太子。大人(たいじん:部族長)である拓跋力微の子。兄弟には拓跋悉鹿・拓跋綽・拓跋禄官がいる。子には拓跋猗㐌・拓跋猗盧・拓跋弗がいる。たびたび魏や西晋への遣使を務めた。拓跋珪が北魏を建てると、偉業を称えて文皇帝と追諡された。
生涯
身長は8尺あり、才覚に溢れ、立派な容貌をしていた。
261年、魏と和親を結んだ拓跋力微は、拓跋沙漠汗を魏へ朝貢させた。拓跋沙漠汗はそのまま人質として洛陽に留まり、拓跋部と魏の和親に努め、漢人の文化や生活を視察した。彼は魏国の賓客として最も尊重され、魏の人は黄金・布絹を毎年一万献上したという。
265年、司馬炎は禅譲を受けて晋朝を樹立した。拓跋部との関係は依然として維持され、引き続き拓跋沙漠汗は人質として滞在を続けた。西晋の官僚の多くは彼と友好を深め、人々から敬慕された。
267年、拓跋沙漠汗は父が既に高齢であったことから、武帝に上表して帰還してもらえるよう請願した。武帝は認め、礼を持って彼を護送した。沙漠汗は晋から十数年ぶりに帰還した。その後も晋との通商を親密に行った。
275年6月、沙漠汗は献上品を持って再び晋に赴いた。同年の冬、沙漠汗は国へ帰ろうとすると、晋の武帝は沙漠汗に牛車百乗にもなる錦・罽(けい:毛織物)・絵(真綿)・綵・綿・絹諸物を送った。征北将軍の衛瓘は、後に患いとなるとし、拓跋沙漠汗を洛陽に留めておくよう上奏したが、武帝は信用を失うことを恐れ許可しなかった。すると、衛瓘はさらに上表し、部族の大人達へ賄賂を送り、拓跋沙漠汗と離間を図り、彼らを争わせて勢力を削ぐことを勧めた。武帝はこれを認め、拓跋沙漠汗を洛陽へ留まらせた。国の執事及び外部大人は皆、衛瓘の賄賂を受け取った。
277年、晋朝は拓跋沙漠汗を帰国させた。父の拓跋力微は大喜びし、各部の大人を派遣して出迎えさせ、彼の為に酒宴が催された。その際、沙漠汗が空を飛んでいる鳥を見て、諸大人へ「あの鳥を捕って見せよう」と言い、弾弓で弾を飛ばし、見事に鳥を撃ち落した。当時の拓跋部には弾弓の技術は伝わっておらず、諸大人は皆驚き「太子の振る舞いや服飾は南方の華族のものであり、奇妙な技はこの国には無いものだ。もしこのまま国家を引き継げば、昔の風習は全て改められ、それは我々の望みとは異なる。我々は今までと変わらず純朴で質素に暮らすべきであり、太子の文化は不要である」と言った。皆それに深く同意した。衛瓘の離間工作もあり、彼らは拓跋沙漠汗を陥れようと決意し、拓跋力微の下へ帰った。拓跋力微は「わが子の晋から帰ってきて、どう変わったかね」と尋ねた。すると諸大人は「太子は才芸に優れ、空に弓を引いて飛ぶ鳥を落とします。晋人の妖異の術を得ており、国を乱し民を害する兆しがあります」と述べ、拓跋沙漠汗に謀反の疑いをかけた。拓跋沙漠汗が長らく晋にいた間、彼の兄弟たちは、日々拓跋力微の寵愛を受けていた。また、拓跋力微は既に百歳を超えており、正しい判断ができなかった。大人の話を聞くにつれ、徐々に心中に疑念を生じ「その者を受け入れることはできない。まさにこれを排除すべきだ」と述べた。これを聞いた諸大人はすぐに拓跋沙漠汗の下へ赴き、拓跋力微の命だと偽り沙漠汗を誅殺した。その後、拓跋力微はこのことを甚だ悔んだという。
宗室
拓跋部 | (1)拓跋毛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(13)拓跋鄰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(14)拓跋詰汾 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
禿髪匹孤 | (15)拓跋力微 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(南涼) | (16)拓跋沙漠汗 | (17)拓跋悉鹿 | (18)拓跋綽 | (東部)拓跋禄官 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(中部)拓跋猗㐌 | (19)拓跋弗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代 | (1)拓跋猗盧 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)拓跋普根 | (5)拓跋賀傉 | (6,8)拓跋紇那 | 拓跋六脩 | (4)拓跋鬱律 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3拓跋? | (7,9)拓跋翳槐 | (10)拓跋什翼犍 | 拓跋孤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
拓跋寔君 | (追)拓跋寔 | 拓跋窟咄 | 拓跋斤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北魏 | (1)道武帝 拓跋珪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)明元帝 拓跋嗣 | 清河王 拓跋紹 | 陽平王 拓跋煕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)太武帝 拓跋燾 | 淮南靖王 拓跋他 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景穆帝 拓跋晃 | 東平王 拓跋翰 | (4)南安王 拓跋余 | 元鍾葵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)文成帝 拓跋濬 | 南安王 拓跋楨 | (僭)元法僧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)献文帝 拓跋弘 | 中山王 元英 | 章武王 元彬 | 扶風王 元怡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(7)孝文帝 元宏 | (追)先帝 元羽 | 北海王 元詳 | (追)文穆帝 元勰 | 章武王 元融 | (11)東海王 元曄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
廃太子 元恂 | (12)節閔帝 元恭 | (僭)北海王 元顥 | (追)孝宣帝 元劭 | (10)孝荘帝 元子攸 | (13)安定王 元朗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(8)宣武帝 元恪 | (追)武穆帝 元懐 | 清河王 元懌 | (僭/追)文景帝 元愉 | (僭)汝南王 元悦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(9)孝明帝 元詡 | 臨洮王 元宝暉 | (西1)文帝 元宝炬 | 清河王 元亶 | (14)孝武帝 元脩 | 馮翊公主 元氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(僭)孝明帝女児 元氏 | (僭)幼主 元釗 | (西2)廃帝 元欽 | (西3)恭帝 拓跋廓 | (東1)孝静帝 元善見 | (北周1)孝閔帝 宇文覚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||