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[[291年]]3月、司馬衷の皇后[[賈南風]]は[[司馬炎]]の[[外戚]][[楊駿]]の権勢を妬み、[[宦官]]の[[董猛]]・[[孟観]]・[[李肇]]や楚王[[司馬瑋]]と結託して政変を起こした。東安公[[司馬繇]]は殿中の兵四百人を率いて楊駿攻撃に向かい、楚王司馬瑋は司馬門を制圧した。楊駿配下の左軍将軍[[劉豫 (西晋)|劉豫]]は洛陽の城門を押さえていたので、裴頠は彼の下に赴いた。劉豫が裴頠に楊駿の居場所を聞くと、裴頠はこれを欺いて「西掖門の方向で素車に乗る[[太傅]](楊駿)と会いました。2人の従者を従えて、素車(白い車)で西に向かわれておりました」と述べた。劉豫は楊駿に見捨てられたと思い「我はどうすればよい」と尋ねると、裴頠は「[[廷尉]]に出頭されるのが宜しいかと思われます」と答えた。劉豫は裴頠の言に従い、兵権を裴頠に預けて廷尉に向かった。朝廷は詔を下し、裴頠に左軍将軍を兼任させ、劉豫の代わりに万春門を守らせた。楊駿が誅殺されると、功績により裴頠は武昌侯に封じられたが、裴頠はこれを辞退して兄の子の裴憬を代わりに封じるように請うた。最終的に裴頠の次男である裴該が封じられると、裴頠はこれを不満に思い「本来、嫡流は裴憬にあり、かつて臣が鉅鹿郡公を継いだのは先帝の恩賜によるものに過ぎません。故に今回の命には従えません。武昌の封については、臣は蒙昧ですので、どうか裴憬を封じて下さいますよう」と請うたが、裴該は当時既に[[公主]](司馬衷の娘)を娶っていたので、認められなかった。後に尚書左僕射に任じられた。
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[[291年]]6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王[[司馬亮]]と[[録尚書事]][[衛カン|衛瓘]]を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らを殺害させた。さらに、司馬瑋が独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言し、司馬瑋を捕らえて処刑した。
[[291年]]6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王[[司馬亮]]と[[録尚書事]][[衛瓘]]を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らを殺害させた。さらに、司馬瑋が独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言し、司馬瑋を捕らえて処刑した。


この事件以降、賈南風は[[賈謐]]・[[郭彰]]ら一族と共に天下を専断するようになった。彼らは共謀すると、[[張華]]が優雅で策略に長けており、賈氏と異姓である事から周囲からの誹りも無いという事で、政務を委ねるに足る人物であると考えた。だが、中々判断が出来なかったので、裴頠にこの事を相談した。裴頠はかねてより張華を重んじていたので、これに賛成した。裴頠もまた[[侍中]]に抜擢され、張華・[[賈模]]と共に朝政の第一人者となり、共に忠を尽くして国政を助け、その誤りを正していった。彼らの尽力により、国内には平安が保たれたという。
この事件以降、賈南風は[[賈謐]]・[[郭彰]]ら一族と共に天下を専断するようになった。彼らは共謀すると、[[張華]]が優雅で策略に長けており、賈氏と異姓である事から周囲からの誹りも無いという事で、政務を委ねるに足る人物であると考えた。だが、中々判断が出来なかったので、裴頠にこの事を相談した。裴頠はかねてより張華を重んじていたので、これに賛成した。裴頠もまた[[侍中]]に抜擢され、張華・[[賈模]]と共に朝政の第一人者となり、共に忠を尽くして国政を助け、その誤りを正していった。彼らの尽力により、国内には平安が保たれたという。

2021年3月22日 (月) 03:34時点における版

裴 頠(はい ぎ、267年 - 300年)は、中国西晋時代の政治家・思想家。逸民本貫河東郡聞喜県裴秀の次男である。

生涯

若き日

代々高官を輩出する名族の出身であり、祖父の裴潜尚書令、父の裴秀は司空まで昇った。西晋の重臣の賈充は裴頠の叔母の夫に当たった。

高雅な人柄で遠大な見識を持っており、博学で古書をよく読み、幼くしてその名を知られた。御史中丞周弼は裴頠と会うと「裴頠は武庫のように軍隊を自在に制御できる才を持っている。まさしく一時代の傑物である」と感嘆した。賈充は上表して「裴秀は国家創業において勲功がありましたが、不幸にも長男(裴濬)は他界し、その嫡子(裴憬)はまだ幼いです。裴頠は才能・徳望は傑出しており、次の世代を興隆させるに足る者です」と進言すると、詔が下り、裴頠は父の爵位である鉅鹿郡公を継ぐ事を命じられた。裴頠は固くこれを辞退したが、朝廷は認めなかった。

裴頠の兄の子である裴憬はに服していたが、裴頠は親の代からの功績を論述して裴憬を取り立てるよう上表し、これにより裴憬は高陽亭侯に封じられた。

281年、召しだされて太子中庶子となり、やがて散騎常侍に移った。また、司徒王戎の娘を妻とした。

290年4月、司馬衷(恵帝)が即位すると、国子祭酒に任じられ、右軍将軍を兼任した。

国政を司る

291年3月、司馬衷の皇后賈南風司馬炎外戚楊駿の権勢を妬み、宦官董猛孟観李肇や楚王司馬瑋と結託して政変を起こした。東安公司馬繇は殿中の兵四百人を率いて楊駿攻撃に向かい、楚王司馬瑋は司馬門を制圧した。楊駿配下の左軍将軍劉豫は洛陽の城門を押さえていたので、裴頠は彼の下に赴いた。劉豫が裴頠に楊駿の居場所を聞くと、裴頠はこれを欺いて「西掖門の方向で素車に乗る太傅(楊駿)と会いました。2人の従者を従えて、素車(白い車)で西に向かわれておりました」と述べた。劉豫は楊駿に見捨てられたと思い「我はどうすればよい」と尋ねると、裴頠は「廷尉に出頭されるのが宜しいかと思われます」と答えた。劉豫は裴頠の言に従い、兵権を裴頠に預けて廷尉に向かった。朝廷は詔を下し、裴頠に左軍将軍を兼任させ、劉豫の代わりに万春門を守らせた。楊駿が誅殺されると、功績により裴頠は武昌侯に封じられたが、裴頠はこれを辞退して兄の子の裴憬を代わりに封じるように請うた。最終的に裴頠の次男である裴該が封じられると、裴頠はこれを不満に思い「本来、嫡流は裴憬にあり、かつて臣が鉅鹿郡公を継いだのは先帝の恩賜によるものに過ぎません。故に今回の命には従えません。武昌の封については、臣は蒙昧ですので、どうか裴憬を封じて下さいますよう」と請うたが、裴該は当時既に公主(司馬衷の娘)を娶っていたので、認められなかった。後に尚書左僕射に任じられた。

291年6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王司馬亮録尚書事衛瓘を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らを殺害させた。さらに、司馬瑋が独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言し、司馬瑋を捕らえて処刑した。

この事件以降、賈南風は賈謐郭彰ら一族と共に天下を専断するようになった。彼らは共謀すると、張華が優雅で策略に長けており、賈氏と異姓である事から周囲からの誹りも無いという事で、政務を委ねるに足る人物であると考えた。だが、中々判断が出来なかったので、裴頠にこの事を相談した。裴頠はかねてより張華を重んじていたので、これに賛成した。裴頠もまた侍中に抜擢され、張華・賈模と共に朝政の第一人者となり、共に忠を尽くして国政を助け、その誤りを正していった。彼らの尽力により、国内には平安が保たれたという。

裴頠は学校を修建するよう上奏し、石碑には経書の内容を刻印し、皇太子司馬遹へは書物を読ませて儀礼を明らかにした。また、儒教を貴び、釈奠を行って孔子を祀った。さらに、鐘を鋳造して磬(仏教で用いる体鳴楽器)を作り、皇帝祭祀の礼楽として備えた。宴会や射的を行う際にも、その振る舞いには甚だ礼儀や秩序が整っていたという。荀藩に対しては父の荀勗の志を遂げさせるよう取り計らってやったこともあった。

また、荀勗の定めた律度(古代の計度)を修め、古尺(度量衡の基準)を研究した。古尺は当時に用いられている基準よりも4分余り短かったので、裴頠は上表して「各種の軽量機器を改めて下さいますよう。もし全てを改める事が出来なければ、まず太医用の衡器を改めて下さい。もし差異をそのままにすると、神農や岐伯が開発した医術と一致しなくなります。薬物の量はわずかに間違えるだけで死を招き、最も深い害となります。古人が長く生き、今人が短命なのは、これが原因でないとは言い切れません」と進言したが、この意見が入れられることは無かった。

後に尚書令に昇進し、侍中の職もそのままであった。さらに、光禄大夫を加えられた。1つの職に任じられる度に丁重にこれを固辞し、10を越える上疏を行った。裴頠の文書には広く古今の失敗事例が引用されていたので、これを読んで心が寒くならない者はいなかった。

296年、趙王司馬倫は洛陽に入ると賈南風に媚び諂って録尚書事や尚書令の地位を求めた。裴頠は彼の人となりを甚だ憎んでいたので、張華と共にこれに反対した。司馬倫はこれにより彼らを強く怨むようになった。

清談を批判

魏晋の時代、何晏阮籍はかねてより名声高かったが、その言葉は欺瞞に溢れて礼法を遵守せず、権力者の後ろ盾を侍ってろくに仕事をしなかった。また、老荘思想を信奉して「天地万物は無が本にあり、無こそ万物を生み出し、陰陽もまた無より生まれ、賢者は無により徳を成すのだ。無とは最も貴い境地にある」と唱えた。これが清談の基本思想となり、この考えは次第に流行するようになった。王衍等は名望は盛んで官位は高かったが、清談による空論を好んで実務をおろそかにし、朝廷の士大夫もこれに追従したので、世の気風は衰えていった。裴頠は当時の風俗が放蕩であり、儒術が尊ばれていないことを深く憂いた。

297年、裴頠が『崇有論』を著し、注釈を用いて「利と欲は少なく出来ても無くすことは出来ない。事務も簡略に出来ても、完全に省略することは出来ない。今、清談をしている者らは形有る物の害を説き、形無い物を尊いとしているが、形有る物は確実に存在し、それを証明することが出来るが、形無い物は存在しておらず、高尚であるか否かを証明する事など出来ない。清談を行う者らは巧妙な文章で人々を惑わし、虚無を貴ぶ気風を形成している。これにより国家の大事が軽視され、実務が疎かとなり、職務に忠実な者が少なくなった。今の社会では虚無を口にすれば『玄妙』と称えられ、官に就いても職を全うしなければ『雅遠(高雅)』といわれ、廉潔を守らず汚職をしても『曠達(豁達)』と褒められる有様だ。節操を磨き、徳行を行う風紀が損なわれ、祭祀や葬儀が廃れて日常の礼儀も軽んじられ、長幼の秩序も無くなり、貴賤の等級も無視され、人前で裸になっても気にしない者まで現れている。士大夫の節操が大きな危機に瀕しているのだ。形ある万物は確かに無から生まれるが、既に無から有になっておいるものは分けて考えるべきであり、今存在する民衆は無によって治めることなど出来ぬ。確かに心は実務ではないが、実務は心によって考え出され、制約されるものであり、この心は無ではない。器具は必ず工匠が作るものだが、この工匠も無の存在ではない。魚は寝ていれば勝手に獲れるわけもなく、鳥は静かに手を伸ばすだけで獲れるわけもない。存在するものには実際に動く事が必要だ。虚無は決して民衆に益となるものではない」と、清談による儒教軽視の弊害を広く訴えたが、当時すでに清談の気風が定着していたため、『崇有論』はなかなか受け入れられなかった。王衍とその側近は裴頠と幾度も激論を交わしてこれを非難したが、裴頠は決して屈しなかった。

賈南風の暴虐

299年6月、賈南風の淫虐は日々酷くなると、裴頠はこれを深く憂慮した。親戚の賈模は禍が及ぶことを恐れ、張華と裴頠に相談を持ち掛けると、彼らは賈南風を廃立して謝玖を立てる事を考えた。慎重に議論を進めていく中で、張華は賈模と共に「主上(恵帝)に廃立の意思が無いのに、我々が専断してもいいのだろうか。諸王はそれぞれ勢力を確保し、朋党を作っている。もし皇后廃立に反対する王がいたら、禍が我々を襲い、国にも危難が及ぶだろう」と述べた。裴頠は「公等の言う通りだ。しかし、宮中(賈南風)の行動は目に余る。近々騒乱が起きるだろう。これをどうすべきか」と言うと、張華は「卿等2人は皇后の親戚であるから、卿等が誠意を持って禍福を説けば、進言を聞き入れるかもしれない。幸いにして天下はまだ安定しているから、まだしばらくは時間がある」と述べ、ひとまず廃立計画は中止となった。

裴頠は幾度も賈南風の母の郭槐の下へ赴き、賈南風へ皇太子と親しく接し、宮中での行いを慎むように諫めて欲しいと頼みこんだ。ある人は裴頠へ「幸いにして汝は宮殿の内外に自由に発言する立場にいる。言うべきことは中宮(賈南風)に率直に伝え、それでももし中宮が改めないのであれば、病を理由にして朝廷から遠くに離れるべきだ。これらをもし実行しなければ、例え10回上書しても、近々禍から逃れることはできないだろう」と告げると、裴頠は感慨の嘆息を漏らしたが、官職を捨てる事は無かった。

8月、裴頠は尚書僕射に任じられ、侍中はそのままとされた。

賈模は幾度も賈南風へ諫言したが、賈南風はこれらの諫言を聞き入れず、逆に賈模が自分を誹謗していると考えて距離を置くようになり、賈模は憂憤から病にかかり死去した。恵帝は賈模の後任として、裴頠へ門下の事務を主管するよう命じると、裴頠は上書して「賈模が死んだばかりなのに臣がそれに代わったら、外戚の地位が上がり、私情による人事と謗られるのは目に見えております。これで后族がどうして自らを保てましょうか。血縁が近いほど政治に深く介入するようになるのは、周知の通りです。漢24帝のうち、ただ孝文帝光武帝明帝は外戚を重用せず、宗室を保つ事が出来ました。そうすれば、特別に賢良であらずとも、理を安んじる事が出来るのです。昔、穆子(叔孫豹)は越礼の特権により皇帝へ拝する事を止めましたが、臣はこの事について特別な詔があったとも聞いておりません。咎繇(皋陶)は虞()を運営し、伊尹を補佐し・呂望(太公望)はを助け、蕭張(蕭何張良)はを興し、功業と教化はすっかり広まり、光が四海を正しました。これを継ぐに及んで、咎単傅説祖己・樊仲(仲山甫)が中興しました。ある者は側陋(地位が低いが才徳を兼備している人物)を取り立て、ある者は寒門を自ら起こし、彼らが重用されたのは自らの尚德による推挙に他ならず、それによってこのような美名となるのです。しかしながら、近世を振り返りますに、遠くを慕うことが出来ず、近臣の情に溺れて多くの親族を登用して、世が治まっておりません。昔、疏広は舅氏(母方の一族、許広漢)を重用している太子(漢の元帝)を広く戒め、前世において礼を知られました。朝廷は外戚に偏った権限を等しくし、以前これを諫めた者を貴べば、至公は明るくなることでしょう。漢の時代、馮野王は用いられませんでしたが、これは正にこの事です」と述べて辞退したが、恵帝はまた特別に詔を下し、任官を受ける様諭した。

司馬遹廃嫡

賈南風が皇太子司馬遹を疎ましく思っているのを知ると、裴頠は司馬遹を守るために謝玖(司馬遹の母)の位号を高める様上表した。また、皇太子を護衛する官吏を増置するよう上表すると、司馬遹には3000の兵が与えられ、東宮においては1万人が宿衛するようになった。

陳準の子の陳匡と韓蔚の子の韓嵩は並んで東宮に侍っていたが、裴頠は「東宮の存在意義は皇太子を教え導くことにあります。その遊接する相手というのも、必ず英俊・成徳の人物を用いるべきです。匡と嵩は幼弱であり、まだ人理や立身の節度を理解してておりません。太子は成長して立派な人物として模範となるべきであるのに、未だに童子や侍従の評判ばかりが聞こえてきます。これは光闡(教えを広く明らかに説き述べること)・遐風(教化を深く響かせること)の弘理とはいえません」と諫めた。

12月、賈南風は司馬遹を入朝させると、恵帝の命と称して三升の酒を飲ませ、酩酊状態に陥らせた。さらに、黄門侍郎潘岳に「太子と謝妃(謝玖、司馬遹の母)は共に議論し、恵帝と賈皇后を廃す事を決めた。その後、道文(司馬虨の字)を王に立て、蒋保林(蒋俊、司馬虨の母。保林は東宮の妃妾の等級)を皇后とする。これらを北帝に祈る」という文章を書かせると、司馬遹に筆と紙を渡し、詔と偽って同じ内容を書くよう命じた。酔いつぶれていた司馬遹はわけもわからず書き写し、賈南風はこれを司馬衷に提出した。

司馬衷は群臣を式乾殿に集めると、黄門令董猛に司馬遹が書いた文書を群臣に示すと、司馬遹へ死を下賜すると宣言した。百官は誰も何も言う事が出来なかったが、張華は諫めて「これは国の大禍であります。漢の武帝より今まで、正嫡を廃立する毎にいつも変事が起こっております。その上、我が晋国は天下を有して未だ日も浅いのです。願わくは陛下、よくお調べになられんことを」と述べると、裴頠も「太子の普段の筆跡と比べるべきです。偽物の恐れがあります」と訴えた。だが、賈南風が筆跡が分かる書類十数枚を見せると、これを敢えて否定する者はいなかった。議論は日が傾く頃まで続き、賈南風は詔に反する者は軍法に即して裁くべしと脅したが、裴頠は張華と共に頑なに反対を続けた。賈南風は裴頠らの決意の堅さを知り、次第に政変を恐れるようになった。その為、遂に妥協して司馬遹の処刑を諦めて庶人に落とすよう進言し、司馬衷はこれに同意した。

最期

300年、右衛督司馬雅・常従督許超は賈南風を廃して皇太子の復位を目論んだが、張華と裴頠はこれに応じなかったので、強大な兵権を握る趙王司馬倫に協力を仰ごうと思い、司馬倫の腹心孫秀へ協力を持ち掛けた。孫秀は表向きはこれに同意したが、裏では密かに司馬倫へ、廃立の謀略をわざと漏らして賈南風に司馬遹を殺害させ、その後仇をとるという大義名分で賈南風を廃して政権を掌握するよう勧め、司馬倫は同意した。孫秀はこれらの噂を流すと、賈南風はこれに驚愕し、黄門孫慮に命じて司馬遹を殺害させた。

4月、司馬倫・孫秀らは政変を決行すると、賈南風とその一族を尽く捕らえた。司馬倫には帝位簒奪の野心があり、孫秀と謀議して朝廷で声望ある者を除く事に決めた。司馬倫は過去の一件から裴頠を怨んでいたので、詔を偽って裴頠へ招集を命じた。裴頠は張華と共に捕らえられ、そのまま処刑された。享年34であった。

裴頠には裴嵩裴該という二人の子がおり、司馬倫はこれも誅殺しようと考えたが、梁王司馬肜と東海王司馬越は、裴頠の父の裴秀は王室に勲功ある人物であるから、太廟を配食して子孫を滅ぼすべきではないと述べ、帯方郡へ流すよう勧めた。

後に司馬倫・孫秀が誅殺されると、裴頠は罪を除かれて卿の礼で改葬され、成と諡された。また、裴嵩は後継として爵位を継ぎ、中書黄門侍郎に任じられた。後に、裴該は父の従兄弟である裴凱に従って江南へ逃れ、散騎常侍に任じられたが、乞活陳午に殺された。

人物

学識が広く道理に通じて見聞を広めており、医術の知識もあった。裴頠は賈南風の親戚であったが、名声高く朝野から信望を集めており、誰も裴頠が外戚との繋がり故に昇進しているとは考えず、ただ裴頠が高官の地位から去ってしまうのを恐れていたという。裴頠は『弁才論』を著して古今の精義にみな注釈をつけたが、完成させる前に災禍に見舞われた。唐書経籍志によると、裴頠は文集10巻を著していたというが、当時既に散逸していたという。

逸話

  • ある時、武帝司馬炎は占いにより西晋の運命を占ったことがあり、占いにより『一』の字を得た。司馬炎はこれを一代で命運が尽きるという意味に捉え、非常に不機嫌になり、大臣達もみな顔を見合わせて青ざめた。裴頠は進み出ると、何晏が著した《老子注》を下に「天は『一』を得て清をなし、地は『一』を得て寧をなし、侯王は『一』を得て国家の員をなします」と述べて憂い事を逆転させると、皆大いに喜んだ。
  • ある時、楽広はかつて裴頠と清談を行うと、彼を言い負かしたいと思ったが、裴頠は豊富な知識と巧みな話術を有していたので、楽広は笑ってごまかすばかりで答えることが出来なかった。世の人は裴頠の事を言談の林薮であると称えたという。

参考文献