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東晋の秘書郎の荀猗の子として生まれた。[[後漢]]の[[荀彧]]の7世の孫で、[[荀羨]]の孫にあたる。
東晋の秘書郎の荀猗の子として生まれた。[[後漢]]の[[荀彧]]の7世の孫で、[[荀羨]]の孫にあたる。


若くして学問を好み、[[五経]]やその伝を広く読んだが、いっぽうで雑戯を好んで街中を豪遊し、評判を傷つけた。駙馬都尉を初任とし、奉朝請・員外散騎侍郎の位を受けた。[[王韶之]]とともに著作佐郎となり、[[徐広]]の『晋史』の編纂事業を補佐して[[桓玄]]らの伝を書いた。尚書祠部郎に転じた。[[413年]]([[義熙]]9年)、[[羊祜]]の子孫が鉅平侯の封を失ったのを惜しんで酇国に封じ、[[陳準]]の子孫の広陵公の封を除き、[[衛カン|衛瓘]]の子孫の江夏公の封を蕭陽県公に降封するよう上表したが、聞き入れられなかった。
若くして学問を好み、[[五経]]やその伝を広く読んだが、いっぽうで雑戯を好んで街中を豪遊し、評判を傷つけた。駙馬都尉を初任とし、奉朝請・員外散騎侍郎の位を受けた。[[王韶之]]とともに著作佐郎となり、[[徐広]]の『晋史』の編纂事業を補佐して[[桓玄]]らの伝を書いた。尚書祠部郎に転じた。[[413年]]([[義熙]]9年)、[[羊祜]]の子孫が鉅平侯の封を失ったのを惜しんで酇国に封じ、[[陳準]]の子孫の広陵公の封を除き、[[衛瓘]]の子孫の江夏公の封を蕭陽県公に降封するよう上表したが、聞き入れられなかった。


世子征虜功曹となり、国子博士をつとめた。妻の弟の[[謝晦]]の推挙を受けて、入朝しては尚書左丞となり、出向しては臨川国内史に任じられた。[[王弘]]にその沈着ぶりを「平陽侯([[曹参]])の風」と評された。散騎常侍の位を受け、本邑大中正をつとめた。席次において陳留王が零陵王の上にあるのを改めて、零陵王の位を陳留王の上とするよう上表して、聞き入れられた。
世子征虜功曹となり、国子博士をつとめた。妻の弟の[[謝晦]]の推挙を受けて、入朝しては尚書左丞となり、出向しては臨川国内史に任じられた。[[王弘]]にその沈着ぶりを「平陽侯([[曹参]])の風」と評された。散騎常侍の位を受け、本邑大中正をつとめた。席次において陳留王が零陵王の上にあるのを改めて、零陵王の位を陳留王の上とするよう上表して、聞き入れられた。

2021年3月22日 (月) 03:34時点における版

荀 伯子(じゅん はくし、378年 - 438年)は、東晋から南朝宋にかけての学者官僚本貫潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)。

経歴

東晋の秘書郎の荀猗の子として生まれた。後漢荀彧の7世の孫で、荀羨の孫にあたる。

若くして学問を好み、五経やその伝を広く読んだが、いっぽうで雑戯を好んで街中を豪遊し、評判を傷つけた。駙馬都尉を初任とし、奉朝請・員外散騎侍郎の位を受けた。王韶之とともに著作佐郎となり、徐広の『晋史』の編纂事業を補佐して桓玄らの伝を書いた。尚書祠部郎に転じた。413年義熙9年)、羊祜の子孫が鉅平侯の封を失ったのを惜しんで酇国に封じ、陳準の子孫の広陵公の封を除き、衛瓘の子孫の江夏公の封を蕭陽県公に降封するよう上表したが、聞き入れられなかった。

世子征虜功曹となり、国子博士をつとめた。妻の弟の謝晦の推挙を受けて、入朝しては尚書左丞となり、出向しては臨川国内史に任じられた。王弘にその沈着ぶりを「平陽侯(曹参)の風」と評された。散騎常侍の位を受け、本邑大中正をつとめた。席次において陳留王が零陵王の上にあるのを改めて、零陵王の位を陳留王の上とするよう上表して、聞き入れられた。

太子僕に転じ、御史中丞をつとめた。司徒左長史に任じられ、東陽郡太守として出向した。438年元嘉15年)、在官のまま死去した。享年は61。『文集』が当時に通行した。

子に荀赤松があり、尚書左丞となったが、徐湛之の党とされて、劉劭に殺害された。

伝記資料