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'''元天錫'''(げん てんしゃく、ウォン・チョンソク、[[1330年]] - [[1402年]])は [[高麗]]末期から[[李氏朝鮮]]初期に活躍した学者、[[隠士]]。号は耘谷。耘谷、元天錫とも呼ばれる。精勇別将の元悦の孫、宗簿寺令の孫。宗簿寺令の元允迪の子。王子時代の太祖の師を務めたが、政治には関心を示さず李朝の官を拒んだ。 |
'''元天錫'''(げん てんしゃく、ウォン・チョンソク、[[1330年]] - [[1402年]])は [[高麗]]末期から[[李氏朝鮮]]初期に活躍した学者、[[隠士]]。号は耘谷。耘谷、元天錫とも呼ばれる。精勇別将の元悦の孫、宗簿寺令の孫。宗簿寺令の元允迪の子。王子時代の太祖の師を務めたが、政治には関心を示さず李朝の官を拒んだ。 |
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高麗を回考した詩調1首、野史5冊を子孫に残したと言われているが、高麗史は高麗王朝実録の書き換えの史書であるなど編纂の経緯が記載されていたとされている。高麗正史との競合する部分があり、史書は子孫が焚書したと伝えられている。なお、詩の部分には、[[王 |
高麗を回考した詩調1首、野史5冊を子孫に残したと言われているが、高麗史は高麗王朝実録の書き換えの史書であるなど編纂の経緯が記載されていたとされている。高麗正史との競合する部分があり、史書は子孫が焚書したと伝えられている。なお、詩の部分には、[[王禑|辛{{lang|zh|旽}}]]関連の王位継承について言及があり、間接的な批判がこめられていると言う。<ref name="耘谷行錄序"> |
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出典 |
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耘谷行錄序 詩史序で朴東亮によるもの。 |
耘谷行錄序 詩史序で朴東亮によるもの。 |
2021年3月24日 (水) 22:27時点における版
元天錫 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 원천석 |
漢字: | 元天錫 |
発音: | ウォン・チョンソク |
日本語読み: | げん・てんしゃく |
元天錫(げん てんしゃく、ウォン・チョンソク、1330年 - 1402年)は 高麗末期から李氏朝鮮初期に活躍した学者、隠士。号は耘谷。耘谷、元天錫とも呼ばれる。精勇別将の元悦の孫、宗簿寺令の孫。宗簿寺令の元允迪の子。王子時代の太祖の師を務めたが、政治には関心を示さず李朝の官を拒んだ。
高麗を回考した詩調1首、野史5冊を子孫に残したと言われているが、高麗史は高麗王朝実録の書き換えの史書であるなど編纂の経緯が記載されていたとされている。高麗正史との競合する部分があり、史書は子孫が焚書したと伝えられている。なお、詩の部分には、辛旽関連の王位継承について言及があり、間接的な批判がこめられていると言う。[1]
脚注
- ^
出典
耘谷行錄序 詩史序で朴東亮によるもの。
- 嘗聞原州人元天錫在麗末隱居著書。言禑,昌父子非辛出事甚悉。
- 逮我朝。閉門終身。其淸風峻節。直可與圃,冶諸公相伯仲。
- 而子孫祕其書久益密。人無得以見者。幷與其名遂泯泯不傳於世。
- 後二百年。余按節到是州。適得其所爲詩耘谷集。雖所紀不多。與向所聞異。
- 要之不失爲特筆也。嗚呼。方禑之嗣王位也。
- ^ 定昌府院君、すなわち後の高麗の第34代国王である恭譲王である。
- ^ 禑王(前廃王または辛禑)と昌王(後廃王または辛昌)をさす。