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「紀元前284年」の版間の差分

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=== 中国 ===
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* [[燕 (春秋)|燕]]の[[昭王 (燕)|昭王]]が[[田斉|斉]]を攻撃する軍を発し、[[楽毅]]を上将軍とした。[[秦]]は尉斯離に軍を与えて[[趙 (戦国)|趙]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[韓 (戦国)|韓]]の軍と合流させた。趙の[[恵文王 (趙)|恵文王]]は[[相国]]の印授を楽毅に与えた。楽毅と秦・魏・韓・趙の兵は連合して斉を攻めた。斉の[[ビン王 (斉)|湣王]]は国中の人々を動員して防戦にあたったが、済西の戦いで斉軍は大敗した。楽毅は秦と韓の軍を帰国させ、魏軍には[[宋 (春秋)|宋]]の旧地を攻略させ、趙軍には河間の地を接収させ、自らは燕軍を率いて、斉国の奥深くまで侵入した。斉の湣王は逃走し、楽毅は臨淄に入った。燕の昭王は遠征軍の功労をねぎらって、楽毅を昌国君に封じた。
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* 斉の湣王は[[衛]]に亡命したが、態度が不遜だったために追い出された。鄒や[[魯]]に逃れたが、やはり傲慢だったため、入国を許されなかった。やむなく自国領でなお降伏していなかった莒に逃れた。湣王は[[楚 (春秋)|楚]]が斉を救援するために送り込んだ淖歯を斉の宰相とした。しかし淖歯は、燕とのあいだで斉を分割することをもくろみ、湣王を殺害した。
* 斉の湣王は[[衛]]に亡命したが、態度が不遜だったために追い出された。鄒や[[魯]]に逃れたが、やはり傲慢だったため、入国を許されなかった。やむなく自国領でなお降伏していなかった莒に逃れた。湣王は[[楚 (春秋)|楚]]が斉を救援するために送り込んだ淖歯を斉の宰相とした。しかし淖歯は、燕とのあいだで斉を分割することをもくろみ、湣王を殺害した。
* 燕の楽毅は斉の70城あまりを攻略し、燕の郡県として編入した。
* 燕の楽毅は斉の70城あまりを攻略し、燕の郡県として編入した。

2021年3月28日 (日) 21:57時点における版

世紀 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀
十年紀 前300年代 前290年代
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紀元前284年
前283年 前282年 前281年

紀元前284年は、ローマ暦の年である。

当時は、「ガイウス・セルヒリウス・トゥッカルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元470年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前284年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

できごと

共和政ローマ

ギリシア

小アジア

中国

  • 昭王を攻撃する軍を発し、楽毅を上将軍とした。は尉斯離に軍を与えての軍と合流させた。趙の恵文王相国の印授を楽毅に与えた。楽毅と秦・魏・韓・趙の兵は連合して斉を攻めた。斉の湣王は国中の人々を動員して防戦にあたったが、済西の戦いで斉軍は大敗した。楽毅は秦と韓の軍を帰国させ、魏軍にはの旧地を攻略させ、趙軍には河間の地を接収させ、自らは燕軍を率いて、斉国の奥深くまで侵入した。斉の湣王は逃走し、楽毅は臨淄に入った。燕の昭王は遠征軍の功労をねぎらって、楽毅を昌国君に封じた。
  • 斉の湣王はに亡命したが、態度が不遜だったために追い出された。鄒やに逃れたが、やはり傲慢だったため、入国を許されなかった。やむなく自国領でなお降伏していなかった莒に逃れた。湣王はが斉を救援するために送り込んだ淖歯を斉の宰相とした。しかし淖歯は、燕とのあいだで斉を分割することをもくろみ、湣王を殺害した。
  • 燕の楽毅は斉の70城あまりを攻略し、燕の郡県として編入した。
  • 秦の昭襄王と魏の昭王と韓の釐王洛陽で会合した。

誕生

死去

  • ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル - ローマの執政官、将軍(紀元前320年生)
  • アガトクレス - リュシマコスの息子
  • 湣王 - 斉の王

脚注

注釈

出典

関連項目