コンテンツにスキップ

「孝王 (周)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
22行目: 22行目:
'''孝王'''(こうおう)は、[[西周 (王朝)|西周]]の第8代王。
'''孝王'''(こうおう)は、[[西周 (王朝)|西周]]の第8代王。


姓は姫、諱は辟方<ref name="shiki">『[[史記]]』巻四 周本紀第四</ref><ref group="注">『史記』三代世表では、諱を方とする。</ref>。[[共王 (周)|共王]]の弟にあたる<ref name="shiki"/><ref group="注">『史記』三代世表によると、[[懿王 (周)|懿王]]の弟にあたる。</ref>。
姓は姫、諱は辟方<ref name="shiki">『[[史記]]』巻四 周本紀第四</ref><ref group="注">『史記』三代世表では、諱を方とする。</ref>。[[共王 (周)|共王]]の弟にあたる<ref name="shiki"/><ref group="注">『史記』三代世表によると、[[懿王]]の弟にあたる。</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[穆王 (周)|穆王]]の子。甥<ref name="shiki"/>の[[懿王 (周)|懿王]]が死去すると、姫辟方が周王に即位した<ref name="shiki"/>。
[[穆王 (周)|穆王]]の子。甥<ref name="shiki"/>の[[懿王]]が死去すると、姫辟方が周王に即位した<ref name="shiki"/>。


{{仮リンク|西犬丘|label=犬丘|zh|西犬丘}}の[[非子]]が馬の飼育に長けていることを知った孝王は非子を召し出して、{{Lang|ko|汧}}河と[[渭水|渭河]]の間で馬の管理を任せ、一年後に非子は馬の数を倍に増やした。これに満足した孝王は非子に[[秦]]の地を与えた<ref>『史記』巻五 秦本紀第五</ref>。
{{仮リンク|西犬丘|label=犬丘|zh|西犬丘}}の[[非子]]が馬の飼育に長けていることを知った孝王は非子を召し出して、{{Lang|ko|汧}}河と[[渭水|渭河]]の間で馬の管理を任せ、一年後に非子は馬の数を倍に増やした。これに満足した孝王は非子に[[秦]]の地を与えた<ref>『史記』巻五 秦本紀第五</ref>。

2021年3月29日 (月) 12:01時点における版

孝王 姫辟方
西周
第8代王
王朝 西周
在位期間 前891年 - 前886年
姓・諱 姫辟方(姫方)
諡号 孝王
生年 不詳
没年 前886年
穆王
后妃 王京
陵墓 孝王陵

孝王(こうおう)は、西周の第8代王。

姓は姫、諱は辟方[1][注 1]共王の弟にあたる[1][注 2]

生涯

穆王の子。甥[1]懿王が死去すると、姫辟方が周王に即位した[1]

犬丘中国語版非子が馬の飼育に長けていることを知った孝王は非子を召し出して、河と渭河の間で馬の管理を任せ、一年後に非子は馬の数を倍に増やした。これに満足した孝王は非子にの地を与えた[2]

孝王が死去すると、大甥(懿王の太子)の姫燮が諸侯に擁立されて周王として即位した[1]

孝王の事蹟は伝世文献にそれほど語られず、陝西省宝鶏市眉県常興鎮中国語版楊家村窖蔵で発見された金文中国語版」によってようやく実在が確認された[3]

脚注

注釈

  1. ^ 『史記』三代世表では、諱を方とする。
  2. ^ 『史記』三代世表によると、懿王の弟にあたる。

出典

  1. ^ a b c d e 史記』巻四 周本紀第四
  2. ^ 『史記』巻五 秦本紀第五
  3. ^ 佐藤 2016, pp. 106–108

参考文献