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「虢公翰」の版間の差分

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'''虢公 翰'''(かくこう かん、生没年不詳)は、[[西虢]]の君主で、[[周]]の[[王族]]。[[清]]の[[梁玉縄]]は、『古今人表考』で虢公翰を[[虢石父]]の子と見なせるとしている。
'''虢公 翰'''(かくこう かん、生没年不詳)は、[[西虢]]の君主で、[[周]]の[[王族]]。[[清]]の[[梁玉縄]]は、『古今人表考』で虢公翰を[[虢石父]]の子と見なせるとしている。


[[紀元前771年]]、周の[[幽王 (周)|幽王]]が[[犬戎]]のために殺害された。申侯・曾侯および許の[[文公 (許)|文公]]ら東方の諸侯は申国で周の太子の宜臼を擁立し、これを[[平王 (周)|平王]]とした。いっぽう虢公翰は戎狄と連合し、携の地で王子余臣を擁立し、これを[[携王 (周)|携王]]として、周の平王と対抗させた。ここに周の王室の「二王并立」の分裂局面をもたらした。
[[紀元前771年]]、周の[[幽王 (周)|幽王]]が[[犬戎]]のために殺害された。申侯・曾侯および許の[[文公 (許)|文公]]ら東方の諸侯は申国で周の太子の宜臼を擁立し、これを[[平王 (周)|平王]]とした。いっぽう虢公翰は戎狄と連合し、携の地で王子余臣を擁立し、これを[[携王]]として、周の平王と対抗させた。ここに周の王室の「二王并立」の分裂局面をもたらした。


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2021年3月29日 (月) 12:02時点における版

虢公翰
王朝
姓・諱 姫翰
虢石父

虢公 翰(かくこう かん、生没年不詳)は、西虢の君主で、王族梁玉縄は、『古今人表考』で虢公翰を虢石父の子と見なせるとしている。

紀元前771年、周の幽王犬戎のために殺害された。申侯・曾侯および許の文公ら東方の諸侯は申国で周の太子の宜臼を擁立し、これを平王とした。いっぽう虢公翰は戎狄と連合し、携の地で王子余臣を擁立し、これを携王として、周の平王と対抗させた。ここに周の王室の「二王并立」の分裂局面をもたらした。