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「平王 (周)」の版間の差分

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父幽王が非業の死を遂げた後は、[[廃太子]]されていた宜臼は外祖父の申侯、繒侯、許の文公、従父の[[鄭]]の[[武公 (鄭)|武公]]などの諸侯によって、申にて即位させられた。しかし、都城である[[鎬京]]は戦乱で荒廃していたため、[[紀元前770年]]に[[洛邑]](現在の[[洛陽市|洛陽]])の王城に遷都し、[[東周]]が始まった。以後も鎬京には叔父である[[携王]]一派が存在しており、前759年にこれを倒し、東西分裂していた周を統一した。
父幽王が非業の死を遂げた後は、[[廃太子]]されていた宜臼は外祖父の申侯、繒侯、許の文公、従父の[[鄭]]の[[武公 (鄭)|武公]]などの諸侯によって、申にて即位させられた。しかし、都城である[[鎬京]]は戦乱で荒廃していたため、[[紀元前770年]]に[[洛邑]](現在の[[洛陽市|洛陽]])の王城に遷都し、[[東周]]が始まった。以後も鎬京には叔父である[[携王]]一派が存在しており、前759年にこれを倒し、東西分裂していた周を統一した。


平王は51年の在位の後に崩御した。太子洩父は夭折しており、太子の子である林が[[皇太子|王太孫]]となり、祖父の後を継いで王位を継承した([[桓王 (周)|桓王]])。
平王は51年の在位の後に崩御した。太子洩父は夭折しており、太子の子である林が[[皇太子|王太孫]]となり、祖父の後を継いで王位を継承した([[桓王]])。


==脚注==
==脚注==

2021年3月29日 (月) 12:05時点における版

平王
第13代王
王朝
在位期間 前771年 - 前720年
都城 王城(洛邑)
姓・諱 姫宜臼
生年 不詳
没年 前720年
幽王
申后

平王(へいおう)は、周朝の第13代王。平王の時代より周は東周と称されるようになる。子は太子洩父、王子狐、王子烈[1]ら。

宜臼は元来幽王の太子であったが、褒姒が後宮に入り寵愛を受け、伯服(伯盤)を儲けると、廃太子され、宜臼は申へ逃れた。母であり同じく廃后された申后の父である申侯はこれに怒り、幽王が悪戯で烽火を用い諸侯を集め、それにより諸侯の信頼を失っていた機に乗じ、西方の犬戎と協力して幽王を攻撃した。前771年、幽王と伯服は驪山において殺害され、褒姒も犬戎により連れ去られ、ここに西周は滅亡した。

父幽王が非業の死を遂げた後は、廃太子されていた宜臼は外祖父の申侯、繒侯、許の文公、従父の武公などの諸侯によって、申にて即位させられた。しかし、都城である鎬京は戦乱で荒廃していたため、紀元前770年洛邑(現在の洛陽)の王城に遷都し、東周が始まった。以後も鎬京には叔父である携王一派が存在しており、前759年にこれを倒し、東西分裂していた周を統一した。

平王は51年の在位の後に崩御した。太子洩父は夭折しており、太子の子である林が王太孫となり、祖父の後を継いで王位を継承した(桓王)。

脚注

  1. ^ 春秋左氏伝』より。汝南周氏中国語版の祖とされる。