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周王室も[[桓公 (西周)|桓公]]掲([[貞定王]]の末子)を始祖とする[[西周公]]と[[恵公 (東周)|恵公]]班(西周[[威公 (西周)|威公]]の末子)を始祖とする[[東周公|東周君]]の勢力に分裂しており、赧王は西周の[[武公 (西周)|武公]]を頼って西周の河南(王城)に遷都した。祖父の[[顕王 (周)|顕王]]の時代より[[秦]]の勢力が急速に拡大しており、諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。 |
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[[紀元前307年]]、秦が[[韓 (戦国)|韓]]の宜陽を攻撃すると、赧王は宜陽を救援するために出兵した。 |
2021年3月29日 (月) 12:19時点における版
赧王 | |
---|---|
周 | |
第37代王 | |
王朝 | 周 |
在位期間 | 前314年 - 前256年 |
都城 | 河南(王城) |
姓・諱 | 姫延 |
生年 | 不詳 |
没年 | 前256年 |
父 | 慎靚王 |
※『竹書紀年』では隠王。 |
赧王(たんおう)は、周朝の第37代の王。慎靚王の子。在位期間は59年であり、周朝における最長在位の君主であった。『竹書紀年』によると、諡号は隠王。
在位中は周王室の影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されるようになっていた。
周王室も桓公掲(貞定王の末子)を始祖とする西周公と恵公班(西周威公の末子)を始祖とする東周君の勢力に分裂しており、赧王は西周の武公を頼って西周の河南(王城)に遷都した。祖父の顕王の時代より秦の勢力が急速に拡大しており、諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。
紀元前307年、秦が韓の宜陽を攻撃すると、赧王は宜陽を救援するために出兵した。
紀元前256年、秦の将軍楊摎の攻撃を受けて、西周の文公がその領土を秦に献上した[1]。このため赧王は秦の保護下に入り、まもなく崩御した。秦は九鼎を移し、王畿を占拠することで周は滅亡することとなった。
子孫の有無は不詳。
なお、「赧」は「顔を赤らめて恥じ入る」という意味である。
脚注
- ^ この時、献上した民の数はわずか3万人にすぎなかった。参考・加地伸行 『孔子』 角川ソフィア文庫 2016年 ISBN 978-4-04-400045-5 pp.20 - 21.