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「康公 (斉)」の版間の差分

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[[太公 (田斉)|田和]]を宰相としたが、自身は酒色に耽り、政治を顧みなかった。
[[太公 (田斉)|田和]]を宰相としたが、自身は酒色に耽り、政治を顧みなかった。


前404年、[[三晋]]([[韓 (戦国)|韓]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[趙 (戦国)|趙]])が斉を攻め、康公を捕虜として[[周]]の[[威烈王 (周)|威烈王]]に謁見し、諸侯に加えられるよう求めた<ref>翌年、[[景侯 (韓)|韓虔]](韓の景侯)・[[列侯 (趙)|趙籍]](趙の列侯)・[[文侯 (魏)|魏斯]](魏の文侯)の冊封が実現した。</ref>。
前404年、[[三晋]]([[韓 (戦国)|韓]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[趙 (戦国)|趙]])が斉を攻め、康公を捕虜として[[周]]の[[威烈王]]に謁見し、諸侯に加えられるよう求めた<ref>翌年、[[景侯 (韓)|韓虔]](韓の景侯)・[[列侯 (趙)|趙籍]](趙の列侯)・[[文侯 (魏)|魏斯]](魏の文侯)の冊封が実現した。</ref>。


前391年、康公は田和によって海上の孤島に追放され、食邑として城を一つだけ与えられ、祖先の霊を祀ることとされた。田和は自立して斉の君主と称した(田斉の太公<ref>のち、前386年に至って威烈王の子の[[安王 (周)|安王]]により正式に諸侯に列せられた。</ref>)。
前391年、康公は田和によって海上の孤島に追放され、食邑として城を一つだけ与えられ、祖先の霊を祀ることとされた。田和は自立して斉の君主と称した(田斉の太公<ref>のち、前386年に至って威烈王の子の[[安王 (周)|安王]]により正式に諸侯に列せられた。</ref>)。

2021年3月29日 (月) 12:26時点における版

康公 姜貸
第32代公
王朝
在位期間 前404年 - 前379年
都城 臨淄
姓・諱 姜貸
諡号 康公
生年 不詳
没年 前379年
宣公

康公(こうこう)は、春秋時代(姜斉)の第32代にして最後の君主。宣公の子。

田和を宰相としたが、自身は酒色に耽り、政治を顧みなかった。

前404年、三晋)が斉を攻め、康公を捕虜として威烈王に謁見し、諸侯に加えられるよう求めた[1]

前391年、康公は田和によって海上の孤島に追放され、食邑として城を一つだけ与えられ、祖先の霊を祀ることとされた。田和は自立して斉の君主と称した(田斉の太公[2])。

前379年、康公が死去した。ここに太公望以来の姜斉の家系は断絶し、田和の家系が斉の新たな支配者となった(田斉)。

現在の山東省煙台市芝罘区にある陸繋島芝罘島中国語版には、康公のものとされる墓がある。

脚注

  1. ^ 翌年、韓虔(韓の景侯)・趙籍(趙の列侯)・魏斯(魏の文侯)の冊封が実現した。
  2. ^ のち、前386年に至って威烈王の子の安王により正式に諸侯に列せられた。