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「簡文帝 (東晋)」の版間の差分

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== 人物 ==
== 人物 ==
若い頃から風格があり、容姿も美しかった。見識もあり、物静かで落ち着いた性格の人物だったが、政治手腕には欠けていた。謝安は彼を「[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の類いの人物で、[[清談]]にやや優れているだけ」と評している。[[謝霊運]]は彼の事績から、[[赧王 (周)|赧王]]・[[献帝 (漢)|献帝]]の類いであると評した<ref>『晋書』巻9「簡文帝紀」</ref>。
若い頃から風格があり、容姿も美しかった。見識もあり、物静かで落ち着いた性格の人物だったが、政治手腕には欠けていた。謝安は彼を「[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の類いの人物で、[[清談]]にやや優れているだけ」と評している。[[謝霊運]]は彼の事績から、[[赧王]]・[[献帝 (漢)|献帝]]の類いであると評した<ref>『晋書』巻9「簡文帝紀」</ref>。


== 宗室 ==
== 宗室 ==

2021年3月29日 (月) 12:36時点における版

簡文帝 司馬昱
東晋
第8代皇帝
王朝 東晋
在位期間 372年1月6日 - 9月12日
姓・諱 司馬昱
道万
諡号 簡文皇帝
廟号 太宗
生年 大興3年(320年
没年 咸安2年7月28日
372年9月12日
元帝
鄭夫人
后妃 王皇后
陵墓 高平陵
年号 咸安 : 371年 - 372年

簡文帝(かんぶんてい)は、東晋の第8代皇帝。諱は、字は道万[1]。初代皇帝元帝の末子。

生涯

即位

利発であったことから父に愛された[2]。即位前は会稽王の地位にあり、皇族の長老として数代に渡って若き皇帝を補佐する立場にあった。

太和4年(369年)、前燕北伐に出た桓温慕容垂に大敗した[3][4][5]。このため桓温の威勢が失墜したため、桓温は威勢を取り戻すために太和6年(371年)11月に従孫の皇帝司馬奕(長兄の明帝の孫)を男色に溺れているとして褚太后に進言して廃した後、同月己酉日(372年1月6日)に司馬昱を皇帝として擁立した[6]

このような経緯から簡文帝は桓温の傀儡であり、桓温の言うままに皇族や官吏の任免や賞罰が行われた[7]

崩御と遺詔

即位の翌年である咸安2年(372年)に早くも病に倒れ、53歳で死に臨んで桓温に皇位を禅譲しようと考えた[7]。そして遺詔として「太子(司馬曜)が輔けるに足る人物なら輔佐してもらいたい。もしだめなら、温自ら位を取るがよい」とした(蜀漢劉備諸葛亮にした遺詔と同じである)[7]。しかし侍中の王坦之がその詔を簡文帝の前で破ってしまい「天下は伝えられたもので、陛下がご勝手になさる事はできませぬ」と述べた[7]。すると簡文帝は「運命が晋に味方するなら、その方が詔を破らずとも無事にすむであろうが、運命に見放されているならば、破ったとて何になろう」と述べた[7]。そして謝安の奇策により、「諸葛武侯(諸葛亮)、王丞相(王導)の如くせよ」と改めて崩御した[7]

このような経緯から次の皇位をどうするかで意見は紛糾したが、謝安・王坦之・王彪之王彬の子)らの尽力で簡文帝の六男で12歳の司馬曜(孝武帝)が世襲した[4][8]

人物

若い頃から風格があり、容姿も美しかった。見識もあり、物静かで落ち着いた性格の人物だったが、政治手腕には欠けていた。謝安は彼を「恵帝の類いの人物で、清談にやや優れているだけ」と評している。謝霊運は彼の事績から、赧王献帝の類いであると評した[9]

宗室

后妃

  • 王簡姫(会稽王時代の妃。順皇后追封)
  • 李陵容(文皇太后)
  • 貴人徐氏
  • 淑儀胡氏
  • 淑儀王氏

男子

女子

  • 鄱陽公主(王誕の兄の王嘏にとついだ)- 母は李陵容
  • 新安公主司馬道福(王献之にとついだ)- 母は貴人徐氏
  • 武昌公主(桓沖の子の桓修にとついだ)

脚注

  1. ^ 房玄齢李延寿晋書 簡文帝紀』:簡文皇帝諱昱、字道萬、元帝之少子也
  2. ^ 房玄齢李延寿晋書 簡文帝紀』:幼而岐嶷、為元帝所愛
  3. ^ 駒田 & 常石 1997, p. 113.
  4. ^ a b 川本 2005, p. 129.
  5. ^ 三崎 2002, p. 76.
  6. ^ 駒田 & 常石 1997, p. 115.
  7. ^ a b c d e f 駒田 & 常石 1997, p. 116.
  8. ^ 駒田 & 常石 1997, p. 117.
  9. ^ 『晋書』巻9「簡文帝紀」

参考文献

関連項目