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寧公12年([[紀元前704年|前704年]])、蕩氏を討伐してこれを取った。この年に薨去して西山に葬られ、子の[[出子]]が立って秦君となった。 |
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2021年3月29日 (月) 12:49時点における最新版
ノート:秦#秦の3代公の諡号についてに、このページに関する議論があります。 |
寧公(憲公) | |
---|---|
秦 | |
第3代公 | |
王朝 | 秦 |
在位期間 | 前715年 - 前704年 |
都城 | 平陽 |
諡号 | 寧公(憲公) |
生年 | 前725年 |
没年 | 前704年 |
父 | 竫公(静公) |
陵墓 | 衙 |
子 | 武公、徳公、出子 |
寧公(ねいこう、前725年 - 前704年)は、紀元前8世紀、中国の春秋時代初期に秦を治めた君主である。『史記』によれば秦の第3代公で、憲公(けんこう)とも書かれる。竫公の子で文公の孫。
諡号
[編集]『史記』が記す諡号は、「秦始皇本紀」では「憲公」、「秦本紀」では「寧公」である。1978年に陝西省宝鶏県楊家溝太公廟村で出土した青銅器「秦公鎛」では、秦の初期の歴代公を「文公静公憲公」と銘記する[1]。「秦公鐘」の銘文も「憲公」となっている。
生涯
[編集]文公41年(前725年)、竫公の長子として生まれる。
文公48年(前718年)、太子であった父の竫公が卒去したため、代わって太子に立てられた。
文公50年(前716年)、文公が薨去し、寧公が立って秦君となった。
寧公3年(前713年)、亳王と戦い、これを戎に奔走させ、遂に蕩社[2]を滅ぼす。
寧公12年(前704年)、蕩氏を討伐してこれを取った。この年に薨去して西山に葬られ、子の出子が立って秦君となった。
子
[編集]脚注
[編集]- ^ 飯島武次「春秋戦国時代秦王陵の被葬者と変遷」、187 - 188頁。
- ^ 西戎の一種。
参考資料
[編集]- 『史記』(秦本紀第五、秦始皇本紀第六)
- 飯島武次「春秋戦国時代秦王陵の被葬者と変遷」、『駒沢史学』第91号、2018年12月。