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[[紀元前245年]]、趙の名将であった[[廉頗]]が[[悼襄王]]の不当な人事で解任されたことを怨んで、後任の将軍である[[楽乗]]を破って趙を出奔した。だがこのため、趙に名将がいなくなって[[秦]]の標的とされたため、悼襄王は廉頗を呼び戻そうとした。しかし、郭開は廉頗が趙にいた頃から対立していたため、悼襄王の使者の前で元気な姿を見せて帰参を承知した廉頗であったが、郭開はこの使者を買収して悼襄王に対して「三度遺失」と虚偽の報告をさせた(廉頗が使者の前で3度小用に立った。廉頗が使者の前で3度失禁したという2つの意味がある。どちらの意を取るかは諸説あって不明)。このため、悼襄王は廉頗が使い物にならないとして帰参を許さなかった。 |
[[紀元前245年]]、趙の名将であった[[廉頗]]が[[悼襄王]]の不当な人事で解任されたことを怨んで、後任の将軍である[[楽乗]]を破って趙を出奔した。だがこのため、趙に名将がいなくなって[[秦]]の標的とされたため、悼襄王は廉頗を呼び戻そうとした。しかし、郭開は廉頗が趙にいた頃から対立していたため、悼襄王の使者の前で元気な姿を見せて帰参を承知した廉頗であったが、郭開はこの使者を買収して悼襄王に対して「三度遺失」と虚偽の報告をさせた(廉頗が使者の前で3度小用に立った。廉頗が使者の前で3度失禁したという2つの意味がある。どちらの意を取るかは諸説あって不明)。このため、悼襄王は廉頗が使い物にならないとして帰参を許さなかった。 |
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[[紀元前229年]]、秦王政(後の[[始皇帝]])は天下統一のため、趙に対して[[王翦]]・[[羌瘣]]らを将とした軍を送った。趙の[[幽繆王]]は当時の趙の名将であった[[李牧]]と[[司馬尚]]([[司馬卬]]の父)に防衛させた。秦軍は李牧のために何度も敗れており、今回も李牧の善戦のために苦しんだ。秦は李牧と司馬尚を排除するため、郭開に大金を送って幽繆王との離間を依頼した。郭開は王に「李牧らは謀反を企んでいる」と讒言する。王も実は先代から功名の高い李牧を恐れていたため、この讒言を真に受けて李牧らを更迭しようとした。しかし、李牧は王命に応じず、司馬尚は身の危険を感じて逃亡して、解任された。王は李牧を捕らえて、これを[[死刑|処刑]]して葬り去った。 |
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翌年、趙は秦に[[邯鄲]]を攻められて滅亡し、幽繆王は捕らえられた。郭開の末路は史書に記載がなく不明である。郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだといえる。 |
翌年、趙は秦に[[邯鄲]]を攻められて滅亡し、幽繆王は捕らえられた。郭開の末路は史書に記載がなく不明である。郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだといえる。 |
2021年3月29日 (月) 22:08時点における版
姓名 | 郭開 |
---|---|
時代 | 戦国時代 |
生没年 | 生没年不詳 |
字・別号 | |
本貫・出身地等 | |
職官 | |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 悼襄王→幽繆王 |
家族・一族 |
郭 開(かく かい、生没年不詳)は、中国戦国時代末期の趙の臣。趙を傾かせた奸臣として有名な人物である。
生涯
紀元前245年、趙の名将であった廉頗が悼襄王の不当な人事で解任されたことを怨んで、後任の将軍である楽乗を破って趙を出奔した。だがこのため、趙に名将がいなくなって秦の標的とされたため、悼襄王は廉頗を呼び戻そうとした。しかし、郭開は廉頗が趙にいた頃から対立していたため、悼襄王の使者の前で元気な姿を見せて帰参を承知した廉頗であったが、郭開はこの使者を買収して悼襄王に対して「三度遺失」と虚偽の報告をさせた(廉頗が使者の前で3度小用に立った。廉頗が使者の前で3度失禁したという2つの意味がある。どちらの意を取るかは諸説あって不明)。このため、悼襄王は廉頗が使い物にならないとして帰参を許さなかった。
紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は天下統一のため、趙に対して王翦・羌瘣らを将とした軍を送った。趙の幽繆王は当時の趙の名将であった李牧と司馬尚(司馬卬の父)に防衛させた。秦軍は李牧のために何度も敗れており、今回も李牧の善戦のために苦しんだ。秦は李牧と司馬尚を排除するため、郭開に大金を送って幽繆王との離間を依頼した。郭開は王に「李牧らは謀反を企んでいる」と讒言する。王も実は先代から功名の高い李牧を恐れていたため、この讒言を真に受けて李牧らを更迭しようとした。しかし、李牧は王命に応じず、司馬尚は身の危険を感じて逃亡して、解任された。王は李牧を捕らえて、これを処刑して葬り去った。
翌年、趙は秦に邯鄲を攻められて滅亡し、幽繆王は捕らえられた。郭開の末路は史書に記載がなく不明である。郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだといえる。