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「畢公高」の版間の差分

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畢公高は[[周]]の[[武王 (周)|武王]]・[[成王 (周)|成王]]・[[康王 (周)|康王]]の3代に仕えた。武王により[[畢]](現在の[[陝西省]][[西安市]][[長安区 (西安市)|長安区]]の北)の地に封じられたため、「畢公」と呼ばれた<ref name="giseika">『史記』魏世家</ref>。
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武王が即位すると、畢公高は[[召公セキ|召公奭]]とともに王の側近にあった<ref name="shuhongi">『史記』周本紀</ref>。武王が[[殷]]を攻撃しようと鮮原に進出したとき、畢公高は召公奭とともに召し出された<ref>『[[逸周書]]』和寤解</ref>。武王が朝歌に入ると、[[周公旦]]は大鉞を取り、畢公高は小鉞を取って、武王を挟んで護衛した。畢公高は武王の命を受けて囚われていた人々を釈放した<ref name="shuhongi"/>。成王のとき、畢公高は[[太師]]となって、成王を教導した<ref>『[[書経]]』畢命で康王が「父師」と呼んでいることから、太師とされる。</ref>。成王死去にあたって、畢公高は召公奭とともにその遺命を受け、諸侯を率い、康王の輔弼にあたった<ref>『書経』顧命</ref>。成王の葬礼にあたっては、召公奭は西方諸侯を率い、畢公高は東方諸侯を率いた<ref>『書経』康王之誥</ref>。康王12年、東郊の民生安定を図るよう康王に命じられた<ref>『書経』畢命</ref>。畢公高は周原近郊の居里の区画整理をおこなった<ref name="shuhongi"/>。
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彼の死後、その子孫は畢の封土を失った。末裔に[[晋 (春秋)|晋]]の大夫の[[畢万]]がおり、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[戦国七雄|七雄]]のひとつ[[魏 (戦国)|魏]]の始祖となった<ref name="giseika"/>。
彼の死後、その子孫は畢の封土を失った。末裔に[[晋 (春秋)|晋]]の大夫の[[畢万]]がおり、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[戦国七雄|七雄]]のひとつ[[魏 (戦国)|魏]]の始祖となった<ref name="giseika"/>。

2021年4月3日 (土) 05:57時点における版

畢公 姫高
初公
王朝
在位期間 前1002年? - 不詳
姓・諱 姫高
生年 不詳
没年 不詳
文王

畢公 高(ひつこう こう)は、西周初期の重臣で王族のひとり。姓は[1][2]、名は高。

畢公高は武王成王康王の3代に仕えた。武王により(現在の陝西省西安市長安区の北)の地に封じられたため、「畢公」と呼ばれた[3]

武王が即位すると、畢公高は召公奭とともに王の側近にあった[4]。武王がを攻撃しようと鮮原に進出したとき、畢公高は召公奭とともに召し出された[5]。武王が朝歌に入ると、周公旦は大鉞を取り、畢公高は小鉞を取って、武王を挟んで護衛した。畢公高は武王の命を受けて囚われていた人々を釈放した[4]。成王のとき、畢公高は太師となって、成王を教導した[6]。成王死去にあたって、畢公高は召公奭とともにその遺命を受け、諸侯を率い、康王の輔弼にあたった[7]。成王の葬礼にあたっては、召公奭は西方諸侯を率い、畢公高は東方諸侯を率いた[8]。康王12年、東郊の民生安定を図るよう康王に命じられた[9]。畢公高は周原近郊の居里の区画整理をおこなった[4]

彼の死後、その子孫は畢の封土を失った。末裔にの大夫の畢万がおり、戦国時代七雄のひとつの始祖となった[3]

脚注

  1. ^ 史記』魏世家は、畢公高を周の王室と同姓とする。
  2. ^ 春秋左氏伝』僖公24年は畢公高を文王の子とし、後漢馬融は畢公高を文王の庶子と唱えた。
  3. ^ a b 『史記』魏世家
  4. ^ a b c 『史記』周本紀
  5. ^ 逸周書』和寤解
  6. ^ 書経』畢命で康王が「父師」と呼んでいることから、太師とされる。
  7. ^ 『書経』顧命
  8. ^ 『書経』康王之誥
  9. ^ 『書経』畢命