「イヴァン・モスクヴィン (官僚)」の版間の差分
m Bot作業依頼: 翻訳用出典テンプレートのsubst展開 (Template:Книга) - log |
|||
28行目: | 28行目: | ||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
[[1890年]]1月28日([[ユリウス暦]]16日)、[[ロシア帝国]]{{仮リンク|トヴェリ県|ru|Тверская губерния}}[[トヴェリ]]で<ref name="know">{{lang|ru|{{cite web|url= http://www.knowbysight.info/MMM/05175.asp|title= Москвин Иван Михайлович|publisher= Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991|accessdate= 2016-09-12}}}}</ref>商店員の家庭に生まれた<ref name="Zalesskii"/>。[[サンクトペテルブルク国立鉱山大学|ペテルブルク鉱業学院]]を中退して[[1911年]]から[[ボリシェヴィキ]]党員となり、翌[[1912年]]から[[1914年]]まで党[[ペテルブルク]]委員会で活動し、繰り返し逮捕された<ref name="Zalesskii"/>。[[第一次世界大戦]]前には[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委]]ロシア局員 ([[:ru:Русское бюро ЦК РСДРП|ru]]) でもあった<ref name="EB">{{lang|ru|{{ |
[[1890年]]1月28日([[ユリウス暦]]16日)、[[ロシア帝国]]{{仮リンク|トヴェリ県|ru|Тверская губерния}}[[トヴェリ]]で<ref name="know">{{lang|ru|{{cite web|url= http://www.knowbysight.info/MMM/05175.asp|title= Москвин Иван Михайлович|publisher= Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991|accessdate= 2016-09-12}}}}</ref>商店員の家庭に生まれた<ref name="Zalesskii"/>。[[サンクトペテルブルク国立鉱山大学|ペテルブルク鉱業学院]]を中退して[[1911年]]から[[ボリシェヴィキ]]党員となり、翌[[1912年]]から[[1914年]]まで党[[ペテルブルク]]委員会で活動し、繰り返し逮捕された<ref name="Zalesskii"/>。[[第一次世界大戦]]前には[[ソビエト連邦共産党中央委員会|党中央委]]ロシア局員 ([[:ru:Русское бюро ЦК РСДРП|ru]]) でもあった<ref name="EB">{{lang|ru|{{cite book2| author = {{nobr|Зенькович Н. А.}} | chapter = МОСКВИН Иван Михайлович| chapter-url = http://www.e-reading.club/chapter.php/1031727/138/Zenkovich_-_Samye_zakrytye_lyudi.html| format = | url = http://www.e-reading.club/book.php?book=1031727 | title = Самые закрытые люди. От Ленина до Горбачева: Энциклопедия биографий | orig-year = | agency = | edition = |location= М. |date = 2002 |publisher= Олма-Пресс |at= |volume= |issue = | pages = | page = | series = | isbn = 5-224-03851-0| ref = }}}}</ref>。[[1917年]]には党[[ペトログラード]]市鉄道地区委を率い<ref name="know"/>、[[十月革命]]時にはボロトノイ通りでの武装蜂起会議に参加している<ref name="EB"/>。[[1919年]]にはペトログラード市委および{{仮リンク|サンクトペテルブルク県|label= ペトログラード県|ru|Санкт-Петербургская губерния}}執行委でも働いた<ref name="Zalesskii">{{lang|ru|{{cite book2| author = {{nobr|Залесский К. А.}} | chapter = | chapter-url = | format = | url = | title = Империя Сталина: Биографический энциклопедический словарь | orig-year = | agency = | edition = |location= {{М.}} |date = 2002 |publisher= Вече |at= |volume= |issue = | pages = | page = | series = | isbn = 5-7838-0716-8| ref = }}}}</ref>。同年5月からは党県委部長、ペトログラード鉄道政治部会計・流通責任者を務め、[[1921年]]からペトログラード委部長<ref name="Zalesskii"/>、同年4月からはペトログラード県管理部部長、10月からは党県委組織部部長、[[1923年]]5月からは党中央委北西局組織部部長および副書記を歴任<ref name="know"/>。1923年4月25日から[[1927年]]12月2日までは党中央委員候補であった<ref name="know"/>。 |
||
[[1924年]]から[[1926年]]までは党中央委北西局書記および再度の組織部部長を務めた<ref name="know"/>。ペトログラードでは[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]に次ぐ党のナンバーツーとなったが、しかしモスクヴィンは[[ヨシフ・スターリン]]の派閥に付いてジノヴィエフを攻撃する側に回っている<ref name="EB"/>。同年から[[モスクワ]]に移り<ref name="EB"/>、3月25日から[[1930年]]1月5日まで党中央委組織・配分部部長を務めた<ref name="know"/>。モスクワで[[ニコライ・エジョフ]]に気に入られたモスクヴィンはさらに出世コースを歩み<ref name="EB"/>、[[1927年]]12月19日から[[ソ連共産党書記局|党中央委書記局員]]候補を[[1932年]]10月2日まで、中央委員および{{仮リンク|オルグビューロー|label= 中央委組織局員|en|Orgburo}}を[[1934年]]1月26日まで務めた<ref name="know"/>。1930年1月5日から11月14日までは、中央委行政・経済・労組人事配分部部長でもあった<ref name="know"/>。同年11月からはエジョフによって<ref name="EB"/>[[ソビエト連邦]]{{仮リンク|国民経済最高会議|ru|Высший совет народного хозяйства}} ([[:ru:Высший совет народного хозяйства СССР|ru]]) 副議長および人事局局長に据えられ、1932年2月まで勤めている<ref name="know"/>。同月から[[1935年]]までは連邦重工業人民委員部 ([[:ru:Народный комиссариат тяжёлой промышленности СССР|ru]]) 人事局局長、1934年2月11日から[[1937年]]6月28日までは[[ソビエト連邦人民委員会議|連邦人民委員会議]]附属ソビエト統制委 ([[:ru:Комиссия советского контроля|ru]]) メンバー(1935年から同委重工業グループ長)も歴任した<ref name="know"/>。 |
[[1924年]]から[[1926年]]までは党中央委北西局書記および再度の組織部部長を務めた<ref name="know"/>。ペトログラードでは[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]に次ぐ党のナンバーツーとなったが、しかしモスクヴィンは[[ヨシフ・スターリン]]の派閥に付いてジノヴィエフを攻撃する側に回っている<ref name="EB"/>。同年から[[モスクワ]]に移り<ref name="EB"/>、3月25日から[[1930年]]1月5日まで党中央委組織・配分部部長を務めた<ref name="know"/>。モスクワで[[ニコライ・エジョフ]]に気に入られたモスクヴィンはさらに出世コースを歩み<ref name="EB"/>、[[1927年]]12月19日から[[ソ連共産党書記局|党中央委書記局員]]候補を[[1932年]]10月2日まで、中央委員および{{仮リンク|オルグビューロー|label= 中央委組織局員|en|Orgburo}}を[[1934年]]1月26日まで務めた<ref name="know"/>。1930年1月5日から11月14日までは、中央委行政・経済・労組人事配分部部長でもあった<ref name="know"/>。同年11月からはエジョフによって<ref name="EB"/>[[ソビエト連邦]]{{仮リンク|国民経済最高会議|ru|Высший совет народного хозяйства}} ([[:ru:Высший совет народного хозяйства СССР|ru]]) 副議長および人事局局長に据えられ、1932年2月まで勤めている<ref name="know"/>。同月から[[1935年]]までは連邦重工業人民委員部 ([[:ru:Народный комиссариат тяжёлой промышленности СССР|ru]]) 人事局局長、1934年2月11日から[[1937年]]6月28日までは[[ソビエト連邦人民委員会議|連邦人民委員会議]]附属ソビエト統制委 ([[:ru:Комиссия советского контроля|ru]]) メンバー(1935年から同委重工業グループ長)も歴任した<ref name="know"/>。 |
2021年4月15日 (木) 23:39時点における版
イヴァン・ミハイロヴィチ・モスクヴィン Иван Михайлович Москвин | |
---|---|
NKVDに逮捕された際のモスクヴィン | |
生年月日 | 1890年1月28日 |
出生地 | ロシア帝国トヴェリ県トヴェリ郡トヴェリ |
没年月日 | 1937年11月27日(47歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
出身校 | ペテルブルク鉱業学院(中退) |
所属政党 | ボリシェヴィキ |
在任期間 | 1926年3月25日 - 1930年1月5日 |
在任期間 | 1930年1月5日 - 11月14日 |
在任期間 | 1930年11月 - 1932年2月 |
イヴァン・ミハイロヴィチ・モスクヴィン(ロシア語: Иван Михайлович Москвин、1890年1月28日 - 1937年11月27日)は、ロシアの革命家・ソビエト連邦の官僚。
生涯
1890年1月28日(ユリウス暦16日)、ロシア帝国トヴェリ県トヴェリで[1]商店員の家庭に生まれた[2]。ペテルブルク鉱業学院を中退して1911年からボリシェヴィキ党員となり、翌1912年から1914年まで党ペテルブルク委員会で活動し、繰り返し逮捕された[2]。第一次世界大戦前には党中央委ロシア局員 (ru) でもあった[3]。1917年には党ペトログラード市鉄道地区委を率い[1]、十月革命時にはボロトノイ通りでの武装蜂起会議に参加している[3]。1919年にはペトログラード市委およびペトログラード県執行委でも働いた[2]。同年5月からは党県委部長、ペトログラード鉄道政治部会計・流通責任者を務め、1921年からペトログラード委部長[2]、同年4月からはペトログラード県管理部部長、10月からは党県委組織部部長、1923年5月からは党中央委北西局組織部部長および副書記を歴任[1]。1923年4月25日から1927年12月2日までは党中央委員候補であった[1]。
1924年から1926年までは党中央委北西局書記および再度の組織部部長を務めた[1]。ペトログラードではグリゴリー・ジノヴィエフに次ぐ党のナンバーツーとなったが、しかしモスクヴィンはヨシフ・スターリンの派閥に付いてジノヴィエフを攻撃する側に回っている[3]。同年からモスクワに移り[3]、3月25日から1930年1月5日まで党中央委組織・配分部部長を務めた[1]。モスクワでニコライ・エジョフに気に入られたモスクヴィンはさらに出世コースを歩み[3]、1927年12月19日から党中央委書記局員候補を1932年10月2日まで、中央委員および中央委組織局員を1934年1月26日まで務めた[1]。1930年1月5日から11月14日までは、中央委行政・経済・労組人事配分部部長でもあった[1]。同年11月からはエジョフによって[3]ソビエト連邦国民経済最高会議 (ru) 副議長および人事局局長に据えられ、1932年2月まで勤めている[1]。同月から1935年までは連邦重工業人民委員部 (ru) 人事局局長、1934年2月11日から1937年6月28日までは連邦人民委員会議附属ソビエト統制委 (ru) メンバー(1935年から同委重工業グループ長)も歴任した[1]。
同僚の言によればモスクヴィンは非常に勤勉実直で、酒も煙草もやらず、趣味もなく、下品な言葉も冗談も嫌う人間であったという[3]。また、チェキストであるグレブ・ボキーの元妻とも結婚していた[3]。しかし、モスクヴィンは1937年5月16日にフリーメイソンのロッジを組織して国家転覆を図った容疑で逮捕された[3]。そして6月28日に統制委および党から除名され、7月13日にエジョフが署名した令状によって再逮捕され[3]、11月27日に連邦最高裁軍事参議会によって死刑を宣告され、同日処刑された[4]。その後、モスクヴィンは1956年7月に名誉回復が、10月に党籍回復がなされた[4]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j “Москвин Иван Михайлович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年9月12日閲覧。
- ^ a b c d Залесский К. А. (2002). Империя Сталина: Биографический энциклопедический словарь. М.: Вече. ISBN 5-7838-0716-8。
- ^ a b c d e f g h i j Зенькович Н. А. (2002). "МОСКВИН Иван Михайлович". Самые закрытые люди. От Ленина до Горбачева: Энциклопедия биографий. М.: Олма-Пресс. ISBN 5-224-03851-0。
- ^ a b "Москвин Иван Михайлович" (журнал) (7) (Известия ЦК КПСС ed.). М.: Издательство ЦК КПСС «Правда». 1990. ISSN 0235-7097。
{{cite journal}}
: Cite journalテンプレートでは|journal=
引数は必須です。 (説明)
党職 | ||
---|---|---|
先代 コンスタンチン・ゲイ |
全連邦共産党(ボ)中央委員会組織・配分部部長 1926年3月25日 - 1930年1月5日 |
次代 なし |
先代 なし |
全連邦共産党(ボ)中央委員会行政・経済・労働組合人事配分部部長 1930年1月5日 - 11月14日 |
次代 ニコライ・エジョフ |