コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ホセ・デ・マドラーソ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Sorry, revert error made by bot
タグ: 取り消し
Cewbot (会話 | 投稿記録)
21行目: 21行目:


== 略歴 ==
== 略歴 ==
現在のスペイン・[[カンタブリア州]]の[[サンタンデール (スペイン)|サンタンデール]]に生まれた。[[マドリード]]の[[王立サン・フェルナンド美術アカデミー]]でコスメ・デ・アクーニャや[[グレゴリオ・フェロ]]に学んだ。その才能はフランス大使のFernando La Sernaが注目するところとなり、[[パリ]]に伴われ、1803年からフランスの[[新古典派]]の画家、[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の工房で学ぶことになった<ref name="Who">José de Madrazo y Agudo. In: Who’s Who. Abgerufen am 21. Januar 2013</ref><ref name="Palmer">{{Literatur|Autor=Allison Lee Palmer|Titel=Historical Dictionary of Neoclassical Art and Architecture|TitelErg=Band 48 von Historical Dictionaries of Literature and the Arts|Verlag=Scarecrow Press| Ort=Lanham, Maryland|Jahr=2011|ISBN=978-0-8108-6195-4|Seiten=146|Online={{Google Buch|BuchID=dUNJlCuRJL8C|Seite=146}}}}</ref><ref>{{Meyers Online|11|49|spezialkapitel=Madrazo y Agūdo}}</ref> 。ナポレオンの治世下で1806年に[[ローマ]]に移り、[[アカデミア・ディ・サン・ルカ]]でも学んだ。
現在のスペイン・[[カンタブリア州]]の[[サンタンデール (スペイン)|サンタンデール]]に生まれた。[[マドリード]]の[[王立サン・フェルナンド美術アカデミー]]でコスメ・デ・アクーニャや[[グレゴリオ・フェロ]]に学んだ。その才能はフランス大使のFernando La Sernaが注目するところとなり、[[パリ]]に伴われ、1803年からフランスの[[新古典派]]の画家、[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]の工房で学ぶことになった<ref name="Who">José de Madrazo y Agudo. In: Who’s Who. Abgerufen am 21. Januar 2013</ref><ref name="Palmer">{{citation2|surname1=Allison Lee Palmer|title=Historical Dictionary of Neoclassical Art and Architecture: Band 48 von Historical Dictionaries of Literature and the Arts|publisher=Scarecrow Press|publication-place=Lanham, Maryland|year=2011|at=p.&nbsp;146|isbn=978-0-8108-6195-4|language=de|url={{Google Buch|BuchID=dUNJlCuRJL8C|Seite=146}}
}}</ref><ref>{{Meyers Online|11|49|spezialkapitel=Madrazo y Agūdo}}</ref> 。ナポレオンの治世下で1806年に[[ローマ]]に移り、[[アカデミア・ディ・サン・ルカ]]でも学んだ。


イタリアで活動していた[[シレジア]]の画家、タデウシュ・クンツェの娘と1809年にローマで結婚した。
イタリアで活動していた[[シレジア]]の画家、タデウシュ・クンツェの娘と1809年にローマで結婚した。

2021年4月16日 (金) 09:30時点における版

ホセ・デ・マドラーソ
José de Madrazo
自画像
生誕 1781年4月22日
スペイン,サンタンデール
死没 1859年5月8日
スペイン,マドリード
テンプレートを表示

ホセ・デ・マドラーソ(José de Madrazo y Agudo、1781年4月22日 - 1859年5月8日)はスペインの画家、版画家である。肖像画、歴史画を描いた。プラド美術館の館長も務めた。

略歴

現在のスペイン・カンタブリア州サンタンデールに生まれた。マドリード王立サン・フェルナンド美術アカデミーでコスメ・デ・アクーニャやグレゴリオ・フェロに学んだ。その才能はフランス大使のFernando La Sernaが注目するところとなり、パリに伴われ、1803年からフランスの新古典派の画家、ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房で学ぶことになった[1][2][3] 。ナポレオンの治世下で1806年にローマに移り、アカデミア・ディ・サン・ルカでも学んだ。

イタリアで活動していたシレジアの画家、タデウシュ・クンツェの娘と1809年にローマで結婚した。

ローマでは、1808年に退位し、ローマに亡命していた元のスペイン国王、カルロス4世に会い、宮廷画家に任じられたが、名目的なものであった。ナポレオンの支配が終わり、フェルナンド7世が復位した後の1818年にマドリードに戻った[4] 。1823年に王立サン・フェルナンド美術アカデミーの教授になり、その後、校長になった。スペイン王室の美術コレクションなどを収蔵するために1819年に設立されたプラド美術館の収蔵品の整理、拡充に貢献し1838年に美術館長を務めた。

息子のフェデリコ・デ・マドラーソルイス・デ・マドラーソが画家になり、その次の世代のライムンド・デ・マドラーソらも画家となり、マドラーソ家はスペインの美術における重要な一族になった。

作品

脚注

  1. ^ José de Madrazo y Agudo. In: Who’s Who. Abgerufen am 21. Januar 2013
  2. ^ Allison Lee Palmer (2011), [ホセ・デ・マドラーソ, p. 146, - Google ブックス Historical Dictionary of Neoclassical Art and Architecture: Band 48 von Historical Dictionaries of Literature and the Arts] (ドイツ語), Lanham, Maryland: Scarecrow Press, p. 146, ISBN 978-0-8108-6195-4 {{citation}}: |url=の値が不正です。 (説明)
  3. ^ Madrazo y Agūdo. In: Meyers Konversations-Lexikon. 4. Auflage. Band 11, Verlag des Bibliographischen Instituts, Leipzig/Wien 1885–1892, S. 49.
  4. ^ Madrazo y Agūdo. In: Meyers Konversations-Lexikon. 4. Auflage. Band 11, Verlag des Bibliographischen Instituts, Leipzig/Wien 1885–1892, S. 49.

参考文献

  • Francisco Javier Sánchez Cantón: Der Prado. Deutsche Buch-Gemeinschaft; Droemersche Verlagsanstalt Th. Knaur Nachf., Berlin/ Darmstadt/ Wien; München/ Zürich 1959, S. 55–58 (französisch: Trésors de la peinture au Prado. Übersetzt von Alfred P. Zeller).
  • José Luis Diez (Hrsg.): José de Madrazo. Madrid 1998, ISBN 84-87678-69-6.