コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「オットー・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Sorry, revert error made by bot
タグ: 取り消し 差し戻し済み
Cewbot (会話 | 投稿記録)
タグ: 手動差し戻し
55行目: 55行目:


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Literatur |Autor=[[Friedrich Weissensteiner]] |Titel=Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Elisabeth Marie, Tochter des Kronprinzen Rudolf |Verlag=Piper |Ort=München/Berlin |Datum=1993 |ISBN=978-3-492-24538-8 |Seiten=77, S. 123 f., S. 223–227 |Originaltitel=Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Tochter des Kronprinzen Rudolf |JahrEA=1984 |VerlagEA=Österreichischer Bundesverlag |OrtEA=Wien}}
* {{citation2|surname1=[[Friedrich Weissensteiner]]|title=Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Elisabeth Marie, Tochter des Kronprinzen Rudolf|publisher=Piper|publication-place=München/Berlin|at=pp. 77, S. 123 f., S. 223–227|isbn=978-3-492-24538-8|date=1993|orig-year= 1984 Österreichischer Bundesverlag Wien|trans-title=Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Tochter des Kronprinzen Rudolf|language=de
}}
* {{Anker|Ghislaine}} {{Literatur |Autor=Ghislaine Windisch-Graetz |Titel=Kaiseradler und rote Nelken. Das Leben der Tochter des Kronprinzen Rudolf |Verlag=Amalthea |Ort=Wien/München |Datum=1992 |ISBN=3-85002-264-1}}
* {{Anker|Ghislaine}} {{citation2|surname1=Ghislaine Windisch-Graetz|title=Kaiseradler und rote Nelken. Das Leben der Tochter des Kronprinzen Rudolf|publisher=Amalthea|publication-place=Wien/München|isbn=3-85002-264-1|date=1992|language=de
}}


== 引用・脚注 ==
== 引用・脚注 ==

2021年4月16日 (金) 09:38時点における版

オットー・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ
Otto zu Windisch-Graetz
ヴィンディシュ=グレーツ侯オットー、1901年

称号 侯爵
出生 (1873-10-07) 1873年10月7日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国グラーツ[1]
死去 (1952-12-25) 1952年12月25日(79歳没)
スイスの旗 スイスルガーノ
配偶者 エリーザベト・マリー・フォン・エスターライヒ
子女 フランツ・ヨーゼフ
エルンスト
ルドルフ
シュテファニー
家名 ヴィンディシュ=グレーツ家
父親 エルンスト・フェルディナント・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ
母親 カミーラ・ツー・エッティンゲン=シュピールベルク
テンプレートを表示

オットー・ヴェーリアント・フーゴー・エルンスト・ツー・ヴィンディシュ=グレーツドイツ語: Otto Weriand Hugo Ernst Prinz (Fürst) zu Windisch-Graetz, 1873年10月7日 - 1952年12月25日)は、オーストリア=ハンガリー帝国貴族、軍人。「赤い大公女(rote Erzherzogin)」と呼ばれたエリーザベト・マリー・フォン・エスターライヒの最初の夫である。

第一次世界大戦後、1919年4月に貴族廃止法ドイツ語版成立に伴ってオーストリアの貴族制度が否定されると、これを嫌ってユーゴスラビア王国の国民となることを選んだ[2]

生涯

ヴィンディシュ=グレーツ侯子エルンスト・フェルディナントと、その妻でエッティンゲン=エッティンゲン侯及びエッティンゲン=シュピールベルク侯オットーの娘カミーラ(1845年 - 1888年)の間の次男として生まれた。

1891年メーリッシュ=ヴァイスキルヒェン騎兵幼年士官学校ドイツ語版に入学し、2年後、あまり芳しい成績を残せないまま卒業。1894年・1895年にオロモウツの旅団附属士官学校(Brigadeoffiziersschule)で学び、1895年5月1日少尉に任官。ブルノに2年駐屯し、1899年中尉に昇進した後、軍事大学校(Kriegsschule)で学び、優良な成績で1901年に同校を卒業[3]。第一次世界大戦中はチロル猟兵大隊を率いて戦った。

1900年9月、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の孫娘で、亡き皇太子ルドルフの一人娘のエリーザベト・マリー大公女と恋に落ちた。ヴィンディシュ=グレーツ家は高級貴族とはいえシュタンデスヘル家門に過ぎないため、大公女の嫁ぎ先としては同格出生の基準を満たせなかった。1902年1月23日ウィーンで2人が結婚した際は、大公女は貴賤結婚のために帝位継承権を放棄する文書に署名したが、一方で、皇帝の孫娘に対する特別な計らいによって、オットーは結婚に伴い一代限りの侯爵(フュルスト)の爵位を与えられた。

夫妻の結婚生活は上手くいかず、1919年[4]又は1924年[5]に別居、1948年正式離婚した。間に生まれた4人の子供の養育権をめぐり、2人は長年にわたる法廷闘争を行った[4][5]

オットーは非常に優れた騎手だっただけでなく、水泳、体操、フェンシングについても玄人はだしであった。1911年オーストリア総合スポーツ中央連盟(Österreichischen Zentralverband für gemeinsame Sportinteressen)会長に就任したが、この連盟は同時に同国のオリンピック委員会(Olympischen Komitee)としても機能していた。この資格により、1911年の国際オリンピック委員会(IOC)の委員に任命された。彼は1914年にパリで開かれたIOCの会合において、最も身分の高い貴族出身の委員であると報道された[6]

第一次世界大戦中は、国際組織のIOCのメンバーだったことが災いし、オーストリア国内で公的役割を果たすことは出来なかった。IOCは大戦後の1921年の会合においてオットーを委員として復帰させようとしたが、オットーはもはやオーストリア国内に居住していないことを理由にこれを拒否している[2]

第一次大戦後、ユーゴスラビア王国国籍を選択し、ユーゴスラビア王アレクサンダル1世から与えられた上部クライン地方ブレッド(現スロベニア)近辺の所領に住んだ。第二次世界大戦が始まると、パール侯家ドイツ語版に嫁いでいた妹エレオノーレ[7]が所有するボヘミアの城館で生活した。第二次大戦後はスイスに移り、ローザンヌを主な生活拠点とした[2]。1952年にルガーノで死去[1]、墓地はルガーノ市カスタニョーラ英語版地区にある。

子女

妻エリーザベトとの間に3男1女。子供たちは両親と共に1919年に貴族称号を失っている[8]

  • フランツ・ヨーゼフ・マリー・オットー・アントニウス・イグナティウス・オクタヴィアヌス[8](1904年 - 1981年[3]) - 1934年伯爵令嬢ギスレーヌ・ダールスホット・ショーンハーフェンと結婚
  • エルンスト・ヴェーリアント・マリア・オットー・アントニウス・エクスペディトゥス・アンセルムス[8](1905年 - 1952年[3]) - 1927年エレン・スキナーと結婚(1938年離婚)、1947年男爵令嬢エーファ・フォン・イスバリと再婚
  • ルドルフ・ヨハン・マリア・オットー・ヨーゼフ・アントン・アンドレアス[8](1907年 - 1939年[3]
  • シュテファニー・エレオノーレ・マリア・エリーザベト・カミーラ・フィロメナ・ヴェロニカ[8](1909年 - 2005年[3]) - 1933年ピエール・ダルカンタラ・デ・ケリュフランス語版伯爵と結婚(夫は1944年オラニエンブルク強制収容所で死去)、1945年カール・アクセル・ビョルクルンドと再婚

参考文献

  • Friedrich Weissensteiner (1993) [1984 Österreichischer Bundesverlag Wien], Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Elisabeth Marie, Tochter des Kronprinzen Rudolf [Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Tochter des Kronprinzen Rudolf] (ドイツ語), München/Berlin: Piper, pp. 77, S. 123 f., S. 223–227, ISBN 978-3-492-24538-8
  • Ghislaine Windisch-Graetz (1992), Kaiseradler und rote Nelken. Das Leben der Tochter des Kronprinzen Rudolf (ドイツ語), Wien/München: Amalthea, ISBN 3-85002-264-1

引用・脚注

  1. ^ a b Fußnote 209:
    Otto Prinz v. Windisch-Graetz (Graz, 7.10.1873–25.12.1952, Lugano).
    In: Peter Broucek (Hrsg.): Ein General im Zwielicht. Die Erinnerungen Edmund Glaises von Horstenau. Band 1: K. u. K. Generalstabsoffizier und Historiker. (= Veröffentlichungen der Kommission für neuere Geschichte Österreichs, Band 67). Böhlau, Wien/Köln/Graz 1980, ISBN 3-205-08740-2, S. 200 (オットー・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ, p. 200, - Google ブックス).
  2. ^ a b c Buchanan/Lyberg: 72. Prince Otto Hugo Ernest de Windisch-Grätz. In: JoH Special: The biographies of all IOC Members – Part IV Journal of Olympic History 18, April 2010, Number 1, S. 56–57 (englisch; Volltext Online (Memento vom 12. 9月 2016 im Internet Archive). PDF; S. 8–9).
  3. ^ a b c d e Friedrich Weissensteiner: Die rote Erzherzogin. Das ungewöhnliche Leben der Elisabeth Marie, Tochter des Kronprinzen Rudolf. Piper, München/Berlin 1993, ISBN 978-3-492-24538-8, S. 77, S. 123 f., S. 223–227.
  4. ^ a b Petznek, Elisabeth Erzherzogin Elisabeth Marie. In: dasrotewien.at – Weblexikon der Wiener Sozialdemokratie. SPÖ Wien (Hrsg.); abgerufen am 17. August 2019
  5. ^ a b Elisabeth Marie Petznek im Wien Geschichte Wiki der Stadt Wien
  6. ^ Arnd Krüger: Forgotten Decisions: The IOC on the Eve of World War I. In: OLYMPIKA: The International Journal of Olympic Studies. Volume VI, 1997, S. 85–98. Hier: Chaos at the Sessions, S. 90 (englisch; Volltext Online (Memento vom 7. 10月 2018 im Internet Archive). PDF; S. 6).
  7. ^ エレオノーレ(1878年 - 1977年)は1901年パール侯カール(1834年 - 1917年)の長子パール伯アルフォンス(1868年 - 1903年)に嫁いだが2年後に死別、夫の死の3か月後に出産した息子アルフォンス(1903年 - 1979年)が、1917年に祖父よりパール侯家の家督を継いでいた。
  8. ^ a b c d e 1918年に樹立されたオーストリア第一共和国で1919年4月に議会を通過した貴族廃止法ドイツ語版により、ヴィンディシュ=グレーツ家も貴族称号と姓に「ツー(zu)」の前置詞を付ける権利を失った。