コンテンツにスキップ

「伊達宗克」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
6行目: 6行目:
[[1970年]](昭和45年)[[11月25日]]に、交流のあった[[三島由紀夫]]から[[徳岡孝夫]](当時:[[サンデー毎日]]の記者)と共に、遺書と[[檄 (三島由紀夫)|檄文]]を受け取り、[[三島事件]]の目撃者となった。関連の編著書に『裁判記録「三島由紀夫事件」』がある。1984年(昭和59年)に徳岡と[[平岡瑤子|瑤子夫人]]にインタビューを行い、月刊誌「[[諸君!]]」(1985年1月号)に掲載された。
[[1970年]](昭和45年)[[11月25日]]に、交流のあった[[三島由紀夫]]から[[徳岡孝夫]](当時:[[サンデー毎日]]の記者)と共に、遺書と[[檄 (三島由紀夫)|檄文]]を受け取り、[[三島事件]]の目撃者となった。関連の編著書に『裁判記録「三島由紀夫事件」』がある。1984年(昭和59年)に徳岡と[[平岡瑤子|瑤子夫人]]にインタビューを行い、月刊誌「[[諸君!]]」(1985年1月号)に掲載された。


[[皇室]]担当記者として『天皇の外交』を刊行、[[1980年]]4月に[[寛仁親王|寬仁親王]]の婚約、[[1983年]](昭和58年)4月には[[千容子|容子内親王]]の婚約をスクープした。
[[皇室]]担当記者として『天皇の外交』を刊行、[[1980年]]4月に[[寬仁親王]]の婚約、[[1983年]](昭和58年)4月には[[千容子|容子内親王]]の婚約をスクープした。


[[昭和天皇]]からも信頼されており、『素顔の天皇陛下』があり、[[1984年]](昭和59年)に放映された「[[NHK特集]] [[皇居]]」の中心スタッフとして取材折衝に当たった。
[[昭和天皇]]からも信頼されており、『素顔の天皇陛下』があり、[[1984年]](昭和59年)に放映された「[[NHK特集]] [[皇居]]」の中心スタッフとして取材折衝に当たった。

2021年4月27日 (火) 14:37時点における版

伊達 宗克(だて むねかつ、1928年(昭和3年)8月18日 - 1988年(昭和63年)1月15日)は日本のジャーナリスト

宇和島藩主家伊達氏の一族として、愛媛県に生まれる。旧制松山中学校日本大学芸術科を経て同大法学部新聞学科を卒業。1954年8月、東京日日新聞社会部からNHKに移り放送記者となる。

1970年(昭和45年)11月25日に、交流のあった三島由紀夫から徳岡孝夫(当時:サンデー毎日の記者)と共に、遺書と檄文を受け取り、三島事件の目撃者となった。関連の編著書に『裁判記録「三島由紀夫事件」』がある。1984年(昭和59年)に徳岡と瑤子夫人にインタビューを行い、月刊誌「諸君!」(1985年1月号)に掲載された。

皇室担当記者として『天皇の外交』を刊行、1980年4月に寬仁親王の婚約、1983年(昭和58年)4月には容子内親王の婚約をスクープした。

昭和天皇からも信頼されており、『素顔の天皇陛下』があり、1984年(昭和59年)に放映された「NHK特集 皇居」の中心スタッフとして取材折衝に当たった。

1985年(昭和60年)8月、NHKを定年退職。解説委員となったが、在職中に死去した。

著書

  • 『裁判記録 「三島由紀夫事件」』講談社、1972年。編著
  • 『天皇の外交』 現代企画室 1975年
  • 『日本の勲章 逸話でつづる百年史』 りくえつ 1979年
  • 『放送記者』 りくえつ 1980年 
  • 『素顔の天皇陛下』 山手書房 1983年