コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「遠澤健二」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 寛仁親王→寬仁親王の修正依頼 (寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント) - log
31行目: 31行目:
翌[[1993年]]の日本選手権([[立川競輪場]])でも決勝へと駒を進め、3着入線だったものの、2着入線の[[大竹慎吾]]の失格により繰り上がって2位となり、初のGI表彰台を経験。その後も[[1996年]]までに通算5回のGI決勝進出を果たし、96年の[[オールスター競輪]]([[岐阜競輪場]])では3着に入った。
翌[[1993年]]の日本選手権([[立川競輪場]])でも決勝へと駒を進め、3着入線だったものの、2着入線の[[大竹慎吾]]の失格により繰り上がって2位となり、初のGI表彰台を経験。その後も[[1996年]]までに通算5回のGI決勝進出を果たし、96年の[[オールスター競輪]]([[岐阜競輪場]])では3着に入った。


[[1997年]]は大活躍の年となり、日本選手権([[岸和田競輪場]]。9着)、オールスター(平塚。8着)で決勝進出を果たした他、同年10月に開催された、[[仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|寬仁親王牌]]([[前橋競輪場]])でも決勝へと駒を進め、2着に食い込んだ。
[[1997年]]は大活躍の年となり、日本選手権([[岸和田競輪場]]。9着)、オールスター(平塚。8着)で決勝進出を果たした他、同年10月に開催された、[[仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|寬仁親王牌]]([[前橋競輪場]])でも決勝へと駒を進め、2着に食い込んだ。


その後もGI、GIIでは常時出場を果たしていたが、[[2007年]]のオールスター([[高知競輪場]])において、実に10年ぶりにGIの決勝へと進出し、4着となった。そしてこのときの実績がモノをいい、初代S級S班18名に選出された。しかしながら、前年のオールスターの頃の脚勢は[[2008年]]に入ってからは完全に影を潜めたため、S級S班として初日から上位のレースに乗っては大敗を繰り返してしまっており、「翌年丸一年間、クラスが保証される」というS級S班制度の問題点を露呈した。ちなみに初代S級S班の最年長選手であった。
その後もGI、GIIでは常時出場を果たしていたが、[[2007年]]のオールスター([[高知競輪場]])において、実に10年ぶりにGIの決勝へと進出し、4着となった。そしてこのときの実績がモノをいい、初代S級S班18名に選出された。しかしながら、前年のオールスターの頃の脚勢は[[2008年]]に入ってからは完全に影を潜めたため、S級S班として初日から上位のレースに乗っては大敗を繰り返してしまっており、「翌年丸一年間、クラスが保証される」というS級S班制度の問題点を露呈した。ちなみに初代S級S班の最年長選手であった。

2021年4月27日 (火) 14:56時点における版

遠澤 健二
Kenji Tōsawa
基本情報
本名 遠澤 健二
とおさわ けんじ
愛称 ケンジ
生年月日 (1965-02-13) 1965年2月13日(59歳)
国籍 日本の旗 日本
身長 169cm
体重 67kg
選手情報
所属 日本競輪選手会神奈川支部
期別 57期
分野 競輪
役割 選手
特徴 追込
プロ経歴
1986- 日本競輪選手会神奈川支部
主要レース勝利
S級S班 2008
最終更新日
2008年12月22日

遠澤 健二(とおさわ けんじ、1965年2月13日- )は、日本競輪選手会神奈川支部に所属する競輪選手藤沢商業高等学校(現 藤沢翔陵高等学校)出身。日本競輪学校第57期生。同期に坂本勉梶應弘樹らがいる。師匠は鈴木了。ホームバンクは平塚競輪場

経歴

高校時代は陸上競技の長距離選手として活躍。1981年1982年全国高等学校駅伝競走大会に出場した経験を持つ。競輪学校時代は在校競走成績第8位。デビュー戦は1986年5月3日花月園競輪場で迎えたが失格に終わっている。

1989年頃からGIなどビッグレースの常連選手として活躍するようになるが、初のGI決勝進出は1992年日本選手権競輪前橋競輪場)。このレースでは、同県の藤田和彦にマークし、最終バック付近までは逃げる藤田の番手につけるという絶好の展開となったが、吉岡稔真に2センターで捲り切られ、自身は4着となった。

1993年の日本選手権(立川競輪場)でも決勝へと駒を進め、3着入線だったものの、2着入線の大竹慎吾の失格により繰り上がって2位となり、初のGI表彰台を経験。その後も1996年までに通算5回のGI決勝進出を果たし、96年のオールスター競輪岐阜競輪場)では3着に入った。

1997年は大活躍の年となり、日本選手権(岸和田競輪場。9着)、オールスター(平塚。8着)で決勝進出を果たした他、同年10月に開催された、寬仁親王牌前橋競輪場)でも決勝へと駒を進め、2着に食い込んだ。

その後もGI、GIIでは常時出場を果たしていたが、2007年のオールスター(高知競輪場)において、実に10年ぶりにGIの決勝へと進出し、4着となった。そしてこのときの実績がモノをいい、初代S級S班18名に選出された。しかしながら、前年のオールスターの頃の脚勢は2008年に入ってからは完全に影を潜めたため、S級S班として初日から上位のレースに乗っては大敗を繰り返してしまっており、「翌年丸一年間、クラスが保証される」というS級S班制度の問題点を露呈した。ちなみに初代S級S班の最年長選手であった。

その他

  • 169cmと小柄だが、デビュー当時から培ってきた俊敏な動きは年齢を経ても衰えを感じさせない。
  • 後輩からの信頼も厚く、ホームバンクの平塚では顔的な存在として君臨している。また2005年にホーム・平塚で行われたKEIRINグランプリでは先頭誘導員を務めた。

関連項目

外部リンク