コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「グイード・ダ・スポレート (イタリア王)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 教皇ステファヌスの移動に伴う修正依頼 (ステファヌス5世 (ローマ教皇)) - log
52行目: 52行目:
[[888年]]の皇帝が死去の後、フランス王の選出の際では企てに失敗([[ウード (西フランク王)|ウード]]が選ばれた)するが、[[ベレンガーリオ1世|ベレンガーリオ]]とのイタリア王位をかけた紛争では、889年の[[トレッビア川]]での戦いで彼を破り[[パヴィーア]]で戴冠した。
[[888年]]の皇帝が死去の後、フランス王の選出の際では企てに失敗([[ウード (西フランク王)|ウード]]が選ばれた)するが、[[ベレンガーリオ1世|ベレンガーリオ]]とのイタリア王位をかけた紛争では、889年の[[トレッビア川]]での戦いで彼を破り[[パヴィーア]]で戴冠した。


891年2月21日には教皇[[ステファヌス5世]]から、ローマ皇帝冠の戴冠を受け、皇帝位を息子のランベルトと共同で受け持った。続く教皇[[フォルモスス]]とは対立関係となり、教皇は[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]をイタリアに呼び寄せた。
891年2月21日には教皇[[ステファヌス5世 (ローマ教皇)|ステファヌス5世]]から、ローマ皇帝冠の戴冠を受け、皇帝位を息子のランベルトと共同で受け持った。続く教皇[[フォルモスス]]とは対立関係となり、教皇は[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]をイタリアに呼び寄せた。


894年にアルヌルフがイタリアに侵攻、[[ベルガモ]]、[[ミラノ]]、[[パヴィーア]]を征服し、そこでグイードに対するイタリア王と公認されてベレンガーリオの領土の寄贈を受け、ゲルマニアに戻った。しかし、グイードから助けを求められたイヴレーア侯[[アンスカーリオ1世]]は、[[ブルグント王の一覧|ブルグント王]][[ルドルフ1世 (ブルグント王)|ルドルフ1世]]が派遣した援軍によりイヴレーアにてアルヌルフの進軍を阻止しようとした。アルヌルフは封鎖を越え、戦闘を回避するために山中にいるルドルフを攻撃した。
894年にアルヌルフがイタリアに侵攻、[[ベルガモ]]、[[ミラノ]]、[[パヴィーア]]を征服し、そこでグイードに対するイタリア王と公認されてベレンガーリオの領土の寄贈を受け、ゲルマニアに戻った。しかし、グイードから助けを求められたイヴレーア侯[[アンスカーリオ1世]]は、[[ブルグント王の一覧|ブルグント王]][[ルドルフ1世 (ブルグント王)|ルドルフ1世]]が派遣した援軍によりイヴレーアにてアルヌルフの進軍を阻止しようとした。アルヌルフは封鎖を越え、戦闘を回避するために山中にいるルドルフを攻撃した。

2021年4月30日 (金) 21:52時点における版

グイード
Guido da Spoleto
ローマ皇帝
グイードのシール
在位 イタリア王:889年 - 894年
皇帝:891年 - 894年
別号 スポレート公

死去 894年12月12日
配偶者 アジェルトゥルデ・ディ・ベネヴェント
子女 ランベルト
ロチルデ
家名 ヴィドー家
父親 グイード1世・ディ・スポレート
母親 イッタ・ディ・ベネヴェント
宗教 カトリック教会
テンプレートを表示

グイード・ダ・スポレートGuido da Spoleto, ? – 894年12月12日) は中世西欧ローマ皇帝(在位:891年 - 894年)、ヴィドー家出身のイタリア889年 - 894年)。グイード・ディ・スポレート (Guido di Spoleto)、またスポレート公(在位:883年 - 894年)としてグイード3世ともいわれる。

生涯

フランクの家柄で、846年にローマがサラセン人の攻撃を受けたときに戦ったグイード1世・ディ・スポレートの息子である。女系を通してカロリング家と血縁関係があった(祖母がカール大帝の息子イタリア王ピピンの娘)。兄ランベルト1世が880年に死去、兄の息子グイード2世も883年死去し、グイード2世の子が年少のため同年スポレート公を継承した。ベネヴェント公アデルキの娘アジェルトゥルデと結婚し、息子ランベルトを授かった。また、娘ロチルデはトスカーナ辺境伯アダルベルト1世と結婚した。

882年、皇帝カール3世に反逆のかどで所領を奪われたが、翌年再占領し、カメリーノ侯となった。885年にはガリリャーノ川でサラセン人を撃退した。

888年の皇帝が死去の後、フランス王の選出の際では企てに失敗(ウードが選ばれた)するが、ベレンガーリオとのイタリア王位をかけた紛争では、889年のトレッビア川での戦いで彼を破りパヴィーアで戴冠した。

891年2月21日には教皇ステファヌス5世から、ローマ皇帝冠の戴冠を受け、皇帝位を息子のランベルトと共同で受け持った。続く教皇フォルモススとは対立関係となり、教皇はアルヌルフをイタリアに呼び寄せた。

894年にアルヌルフがイタリアに侵攻、ベルガモミラノパヴィーアを征服し、そこでグイードに対するイタリア王と公認されてベレンガーリオの領土の寄贈を受け、ゲルマニアに戻った。しかし、グイードから助けを求められたイヴレーア侯アンスカーリオ1世は、ブルグント王ルドルフ1世が派遣した援軍によりイヴレーアにてアルヌルフの進軍を阻止しようとした。アルヌルフは封鎖を越え、戦闘を回避するために山中にいるルドルフを攻撃した。

同年(894年)、グイードは死去し、息子のランベルトに対立王位を残した。

脚注

参考文献

  • René Poupardin, I regni carolingi (840-918), in Storia del mondo medievale, vol. II, 1999, pp. 583-635
  • Tommaso di Carpegna Falconieri, Guido di Spoleto, in Dizionario biografico degli italiani, 61, Roma, Istituto della Enciclopedia Italiana, 2003, pp. 354-361

関連項目

先代
グイード2世
スポレート公
883年 - 894年
次代
ランベルト2世
先代
ベレンガーリオ1世
イタリア王
889年 - 894年
(対立王
ベレンガーリオ1世)
次代
ランベルト・ダ・スポレート
/ ベレンガーリオ1世
(対立王)