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'''イド・ド・ブローニュ''' (Ide de Boulogne、[[1040年]]? - [[1113年]])は、ブローニュ伯ウスタシュ2世の妃。[[カール大帝]]の子孫にあたる。下ロレーヌ公[[ゴットフリート3世 (ロートリンゲン公)|ゴドフロワ3世(2世)]]の子。[[ローマ教皇]][[ステファヌス10世 (ローマ教皇)|ステファヌス10世]]の姪にあたる。彼女はその信仰心と慎み深さで[[列福]]された<ref>[http://nominis.cef.fr/contenus/saint/966/Sainte-Ida-de-Louvain.html Voir site Nominis]</ref>。聖名祝日は4月13日である。
'''イド・ド・ブローニュ''' (Ide de Boulogne、[[1040年]]? - [[1113年]])は、ブローニュ伯ウスタシュ2世の妃。[[カール大帝]]の子孫にあたる。下ロレーヌ公[[ゴットフリート3世 (ロートリンゲン公)|ゴドフロワ3世(2世)]]の子。[[ローマ教皇]][[ステファヌス9世 (ローマ教皇)|ステファヌス9世]]の姪にあたる。彼女はその信仰心と慎み深さで[[列福]]された<ref>[http://nominis.cef.fr/contenus/saint/966/Sainte-Ida-de-Louvain.html Voir site Nominis]</ref>。聖名祝日は4月13日である。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2021年4月30日 (金) 22:01時点における版

イド・ド・ブローニュ
Ide de Boulogne

出生 1040年?
死去 1113年
配偶者 ブローニュ伯ウスタシュ2世
子女 ウスタシュ3世
ゴドフロワ
ボードゥアン
家名 アルデンヌ家
父親 下ロレーヌ公ゴドフロワ3世(2世)
母親 ドダ
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イド・ド・ブローニュ (Ide de Boulogne、1040年? - 1113年)は、ブローニュ伯ウスタシュ2世の妃。カール大帝の子孫にあたる。下ロレーヌ公ゴドフロワ3世(2世)の子。ローマ教皇ステファヌス9世の姪にあたる。彼女はその信仰心と慎み深さで列福された[1]。聖名祝日は4月13日である。

生涯

マンステールビルザン修道院で教育を受けたイドは、17歳、1056年頃にウスタシュ2世と結婚した。夫妻には優れた子供3人が生まれ、ウスタシュとイドはキリスト教教育を授けた。

大いなる信仰心から、彼女はベネディクト会のノートルダム・ド・ベック修道院院長であるカンタベリーのアンセルムスの精神的な指導下にあった。彼らが交わした書簡の一部が現存している。彼女はしばしば、十字軍に参加している息子ゴドフロワの武運を祈り、聖地の聖遺物を受け取り、息子の保護下にある数多くの修道院に寄進した。

1087年に夫が死ぬと、所領と財産の管理はイドに託された。彼女はこの資産を使って貧者を助け、教会や修道院を建立または修復した。特に自らが学んだマンステールビルザン、ブローニュのノートルダム教会、サン・ウルメール教会が知られる。多くの修道院がピカルディに建設され、そのうちの1つサン・ヴァースト修道院にイドは埋葬された。遺体は何度も移転を繰り返したあと、最終的にバイユーのベネディクト会派修道院に埋葬された。1478年、ルイ11世はイドをブローニュおよびその伯領の守護人とした。

子女

脚注