コンテンツにスキップ

「光触寺 (鎌倉市)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
+新編鎌倉志
Cewbot (会話 | 投稿記録)
31行目: 31行目:
|地図 = Japan Kanagawa
|地図 = Japan Kanagawa
}}
}}
{{mapplot|139.5792219|35.320223|光触寺}}
{{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|35.320223|139.5792219}}|caption=光触寺|width=256}}


'''光触寺'''(こうそくじ)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]][[十二所 (鎌倉市)|十二所]]に所在する[[時宗]]の寺院で、[[山号]]は岩蔵山、[[院号]]を長春院という。[[創建]]は[[弘安]]元年([[1278年]])で、[[開山 (仏教)|開山]]は作阿上人、[[開山 (仏教)#開基|開基]]は[[一遍|一遍上人]]と伝えられている<ref>{{Cite book|和書|date=2013年3月20日|title=鎌倉の寺社122を歩く|author1=槇野修|author2=山折哲雄|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-569-81035-5|pages=79-80}}</ref>。[[本尊]]は[[阿弥陀三尊]]で、中尊の[[阿弥陀如来]]像は'''頬焼阿弥陀'''として知られる。[[鎌倉三十三観音霊場]]第7番[[札所]]、[[鎌倉二十四ヶ所地蔵]]第5番札所。[[藤沢市]][[清浄光寺]]末。
'''光触寺'''(こうそくじ)は、[[神奈川県]][[鎌倉市]][[十二所 (鎌倉市)|十二所]]に所在する[[時宗]]の寺院で、[[山号]]は岩蔵山、[[院号]]を長春院という。[[創建]]は[[弘安]]元年([[1278年]])で、[[開山 (仏教)|開山]]は作阿上人、[[開山 (仏教)#開基|開基]]は[[一遍|一遍上人]]と伝えられている<ref>{{Cite book|和書|date=2013年3月20日|title=鎌倉の寺社122を歩く|author1=槇野修|author2=山折哲雄|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-569-81035-5|pages=79-80}}</ref>。[[本尊]]は[[阿弥陀三尊]]で、中尊の[[阿弥陀如来]]像は'''頬焼阿弥陀'''として知られる。[[鎌倉三十三観音霊場]]第7番[[札所]]、[[鎌倉二十四ヶ所地蔵]]第5番札所。[[藤沢市]][[清浄光寺]]末。

2021年5月13日 (木) 21:58時点における版

光触寺

本堂
所在地 神奈川県鎌倉市十二所793
位置 北緯35度19分12.8秒 東経139度34分51.7秒 / 北緯35.320222度 東経139.581028度 / 35.320222; 139.581028座標: 北緯35度19分12.8秒 東経139度34分51.7秒 / 北緯35.320222度 東経139.581028度 / 35.320222; 139.581028
山号 岩蔵山
院号 長春院
宗派 時宗
本尊 阿弥陀三尊
創建年 弘安元年(1278年
開山 作阿
開基 一遍
中興年
中興
  • 含了(元禄)
  • 大純(安政)
  • 正式名 岩蔵山 長春院 光触寺
    別称 頬焼阿弥陀、火印堂
    札所等
    文化財
  • 木造阿弥陀如来及両脇侍立像 3軀(国の重要文化財
  • 紙本淡彩頬焼阿弥陀縁起 2巻(国の重要文化財)
  • 絹本著色阿弥陀三尊像 1幅(市指定文化財)
  • 紙本著色頬焼阿弥陀縁起絵巻模本 2巻(市指定文化財)
  • [1]
    公式サイト 【公式】時宗 岩蔵山 光触寺
    法人番号 5021005001877 ウィキデータを編集
    光触寺 (鎌倉市)の位置(神奈川県内)
    光触寺 (鎌倉市)
    テンプレートを表示
    光触寺 (鎌倉市)の位置(日本内)
    光触寺 (鎌倉市)
    光触寺

    光触寺(こうそくじ)は、神奈川県鎌倉市十二所に所在する時宗の寺院で、山号は岩蔵山、院号を長春院という。創建弘安元年(1278年)で、開山は作阿上人、開基一遍上人と伝えられている[2]本尊阿弥陀三尊で、中尊の阿弥陀如来像は頬焼阿弥陀として知られる。鎌倉三十三観音霊場第7番札所鎌倉二十四ヶ所地蔵第5番札所。藤沢市清浄光寺末。

    歴史

    塩嘗地蔵

    光触寺に伝わる絵巻『頬焼阿弥陀縁起』の詞書に、当寺本尊阿弥陀如来の由来について次のようにある。鎌倉時代の始め頃、将軍の招きで鎌倉に来ていた仏師雲慶(運慶)は、町局(まちのつぼね)という女性の求めにより阿弥陀三尊像を刻んだ。ある時、町局に仕えていた万歳法師なる僧が盗みの疑いをかけられ、頬に焼印を押されたが、法師の頬には焼痕が残らない。その後、町局の夢に阿弥陀仏が現れ、「なぜ、私の頬に火印を押すのか」と言う。朝になってみると、阿弥陀仏の頬に焼痕が残っていたという[3][4]

    その後、町局は出家して比企ヶ谷の西部に岩蔵寺という真言宗寺院を建立し、この阿弥陀三尊像を本尊として安置したと伝えられる。像を安置した須弥壇足利持氏の寄進という。また、岩蔵寺は前述の阿弥陀如来像の由縁により火印堂とも呼ばれていた。

    弘安元年(1278年)に岩蔵寺は現在地へと移ったとされ、その後3代住持が一遍に帰依して作阿弥陀仏(作阿)と改名、一遍を開山に迎えて寺号の岩蔵を山号とし光触寺と改称された[5]

    寺域は移転より長らく無事であったが、元禄年間1688年 - 1704年)に起きた大地震により寺が崩れており、22代住持の含了により中興されている。また、安政年間1854年 - 1860年)の大地震や突風により再び倒壊した際には33代住持の大純により中興されている。

    往時には境内に本堂や庫裏、山門のほか、六坊の塔頭や境内社を備えたが、前記の災害などによりいずれも荒廃し現存しない。近隣にある十二所神社も当寺の境内社の一つであったが、天保9年(1838年)に移転した[6]

    本堂には本尊の阿弥陀三尊像のほか、かつて大慈寺丈六堂の本尊であったという阿弥陀如来の仏頭や、稲荷神像、定朝による平安時代の作と伝わる木造の聖観音菩薩立像が安置されている[7]。本尊阿弥陀三尊像(国の重要文化財)は、衣文の彫法などの点から、縁起に言う運慶作とは認めがたいが、鎌倉時代、13世紀前半の作とみられる[8]

    山門は文化年間1804年 - 1818年)に村民が建てたものとされ、当初は茅葺き屋根であったが1923年大正12年)に瓦葺に葺き替えられている[5]

    本堂前の堂に安置されている石造の地蔵菩薩像はもと県道側にあったといい、六浦横浜市金沢区)の塩売りが県道を通る際に商売繁盛を祈願し塩を供えていったという。そうして帰りに再び立ち寄ると供えた塩が無くなっており、これは地蔵菩薩が塩を舐めたのだろうという逸話からこの地蔵菩薩像は塩嘗地蔵(しおなめじぞう)と呼ばれている。

    文化財

    重要文化財(国指定)

    • 木造阿弥陀如来及両脇侍立像 3軀
    • 紙本淡彩頬焼阿弥陀縁起 2巻

    市指定文化財

    • 絹本著色阿弥陀三尊像 1幅
    • 紙本著色頬焼阿弥陀縁起絵巻模本 2巻

    所在地情報

    所在地
    • 神奈川県鎌倉市十二所793
    交通
    • 鎌倉駅東口より京浜急行バス、鎌倉霊園正門前太刀洗・金沢八景駅行バスに乗り停留所「十二所」下車徒歩約2分[9]

    前後の札所

    鎌倉三十三観音霊場
    6 瑞泉寺 -- 7 光触寺 -- 8 明王院
    鎌倉二十四ヶ所地蔵
    4 瑞泉寺 -- 5 光触寺 -- 6 杉本寺

    脚注

    1. ^ 『鎌倉古社寺辞典』吉川弘文館、2011年7月10日、22-24頁。ISBN 978-4-642-08060-6 
    2. ^ 槇野修、山折哲雄『鎌倉の寺社122を歩く』PHP研究所、2013年3月20日、79-80頁。ISBN 978-4-569-81035-5 
    3. ^ 久野健監修、川尻祐治編『関東古寺の仏像』(芸艸堂、1976)、p.102
    4. ^ 『鎌倉の古寺』(JTBキャンブックス、日本交通公社出版事業局、1996)、pp.54 - 56
    5. ^ a b 『十二所地誌新稿』十二所文化部同人、1980年5月1日、8-10,46-53頁。 
    6. ^ 『鎌倉の神社 小事典』かまくら春秋社、2011年1月27日。ISBN 978-4-7740-0205-7 
    7. ^ 鎌倉市教育センター 編『鎌倉子ども風土記』鎌倉市教育委員会、2009年3月31日、65-66頁。 
    8. ^ 久野健監修、川尻祐治編『関東古寺の仏像』(芸艸堂、1976)、p.102
    9. ^ 『鎌倉の寺 小事典』かまくら春秋社、2011年12月30日、89頁。ISBN 978-4-7740-0173-9 

    関連文献

    • 河井恒久 等編 編「巻之二 鹽甞地蔵/光觸寺」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、45-36頁。NDLJP:952770/37