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2021年5月13日 (木) 22:05時点における版
中野館(なかのたて)は、岩手県盛岡市茶畑に所在した日本の城。別称「飛鳥川館」
沿革
館主は九戸政実の弟、中野吉兵衛康実。北上川と簗川の合流地点北側の平地に位置[1]し、館跡全体の規模や構造は不明。
三戸南部氏と抗争してきた高水寺城主斯波詮真が、南部晴政の圧力に屈して、元亀2年(1571年)九戸政実の弟弥五郎を女婿として受け入れ、入嗣後に知行地として高田村が与えられ高田吉兵衛康実と名を改めたが、当主が詮真からその子・詮直(詮元)に替わると確執して、天正14年(1586年)に康実は南部信直の下へ出奔、信直より中野館を与えられて中野吉兵衛康実と名乗り、これ以降、康実は南部氏側の斯波氏攻略の急先鋒となり、天正16年(1588年)に南部氏は斯波氏を滅亡させた。
脚注
参考文献
- 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。